金曜の深夜、週刊誌の編集部。「文章よくまとまってましたね」と声をかけてもらう。
帰る支度をする。コーヒーカップを洗ってコートを着る。パソコンはそのままにしておく。
ふと周りを見渡すと、自分の班以外に人がいない。さらさらと、テレビから乾いた音が流れている。
私はどうして、ここにいるんだろう。
毎週金曜は校了の日で、私はアンカーという仕事を任されている。
その日、現場を走る記者たちの集めたデータが編集部に集まり、編集担当が記事の構成を考える。そしてアンカーは、データと構成をもとに原稿を書く。1ページで2時間、2ページだとその倍ほどの時間をかけて書き上げていく。自分で、補足のデータを用意することもある。
以前は不定期に仕事をもらっていたけれど、この8ヵ月ほどで毎週携わるようになった。
会社を出ると、雨が降っている。傘をさすと次第に大雨となり、視界が霧のようにぼやけている。
光をなくし、色の薄れた街角。その中に、爛々としたコンビニの灯り。見つめる場所からの角度もあって、チャーリー・ヘイデン『ノクターン』のジャケみたいだ、と思う。
そのコンビニに入る。かじかむ指でハイボール、そして切らしていたタバコを一つ。
手際良くレジを進める店員は、東南アジアから来たと耳にしている。会計に手間取る私より、この店のこと、そしてこの地域のことなら、知ってることもきっと多い。
ハイボールの缶を開け、雨のなかを歩いて行く。途中、買い出しに出た編集の人とすれ違ったものの、傘を持たないその人は下を向いていて、私たちは挨拶をせずにその夜を終えた。
よくまとまってましたね。この言葉が、ずっと胸で疼いている。
私は、いつも自信がない。時間内に文章を書き上げても。そして、どんな言葉をかけられても。
本格的にアンカーに携わるようになったのは、ある役者が新型コロナで亡くなったことがキッカケだった。取材も自分でして、それを元に原稿を書いた。すると編集の方が「もういうことないね。毎週お願いしてもいいかな」と言った。
すみません、ありがとうございます。私はなぜか謝ってしまう。
「根岸さんに毎週お願いしようと思うんです」と伝えられると、別の編集は「さっき謝ってましたけど?」と頭を上げずにいう。
これからもお願いします。その念押しに、私は吃りながら返事をする。
翌週号には、私の書いた原稿がほとんど修正されないまま掲載されていた。そして、やはり金曜にはアンカーの仕事がやって来た。
編集の人たちは、ことあるごとに褒めてくれる。全く問題ないです。ここの書き方いいよね。“根岸節”が利いてるよね。
でも私は、いつも対応できないでいる。生返事か、苦笑いみたいになってしまう。
なぜ、そうなるのか。
みんな、私のために褒めてくれている。私を鼓舞して、士気を高めようとしている。それは私のスキルが不足しているから。私に足りないところが多いから。それでも、とりあえず頑張ってもらうしかないから。
だから少しのキッカケがあれば、放り出すのではないか。手綱はいつか、はずされるのでは。本当は、みんな私を疎ましく思っているのではないか。
根拠なく、そんな風にばかり感じてしまう。
編集の彼は、私にアンカーの仕事を任せるたび、アメを机にそっと置くようになった。
色とりどりのアメ。ありがとうございます、と私は毎度頭を下げる。
頭を下げるたびにアメの量は多くなり、冬の間にいつしかそれがミカンに変わった。
ハイボールを啜りながら、立ち止まる。通りかかった店先の、ガラスに映し出された自分を見つめる。私は、いつまで不安なのだろう。
編集部に根拠のない不信感を抱いているのは、そもそも失礼な話だ。しかし、信じられないでいる。元をただせば、自分の仕事ぶりを信じていない。だから、ますます苦しい。そんな自分のことが日に日に嫌になる。
今の仕事を始めて1年経った頃、私の父が亡くなった。その時、編集長が花を送ろうかと提案した。
毎回誰かの家族が亡くなるたびに花を送るのか、と思い、編集長という仕事は律儀というか、大変だなと思った。
そう編集の人に漏らすと、「いや、編集長は根岸くんのこと気に入ってるからなぁ」と言った。
私はその一言に驚いてしまった。もちろん喜びまじりで、でもその一方、“気に入ってもらっている状態”をいつまで維持できるのだろう、と思った。期待を裏切らないように、と気が重くなり、次第に胸が苦しくなった。
私はいつも、切り離される瞬間を恐れている。
煩悶するたび、気持ちがどんどん追い詰められていく。
同じ不安を繰り返している。その度、頭が熱を持ち、気が狂いそうになる。
私はいつか、本当に気を違えてしまうのではないだろうか。
いつしか、公園に辿り着いた。そこには事故で亡くなった、母子を悼む石碑がある。
強く結びついた2人の碑は、円を描いている。
私は2歳の頃から、母親に英語を教わってきた。英語教室を開いていた母とマンツーマンのレッスンだった。
母は人前で私を褒めるけれど、2人きりの時は褒めなかった。「なんでこれがわからんの?」「さっきも言ったやんか」と詰問する母。でも、人前では褒めてくれる。うんと褒めてくれた。
その二面性に怯えていた。「母の考えていることがわからない」と思っていた。しかし「誰の考えもわかるはずはない」と疑問を流していた。
でも、当時の自分に今ならこう教えてあげられる。君が気にしているのは“母の考え”ではなくて、“母がどういう評価を君に下しているのか”だよ、と。
私が彼女に怯えたのは、彼女が私の母であり、尚かつ教師だからだ。純粋に教師という任務を背負った人には、逆らうことができる。他人だから、抵抗することができる。行き違えば、距離を置くことだってできる。
しかし、“母であり、教師でもある”はどうだろうか。いわんや幼い頃から、その関係が当然のものとしてあったのならば。
見放されることが怖かった。甘えても、どこかに不信感があった。
いつしか私にとって、母はルールとなった。母に言動を合わせることでしか、正解を導けなかった。白といえば白。黒といえば黒。そして、これは彼女の性格に大きく由来するものだが、その白や黒の基準はすぐに変わる。
何かをすると、彼女の評価が下される。いっぽう、何もしないでいると「何ぼーっとしてるの」「ほんまにマイペースなんやから」と言われる。常に彼女の正しさに支配される。
そういうコミュニケーションなんだと、今では思う。それは、おっとりした義兄とのやりとりを見ていても思う。
でも、私は不安と緊張の中にいた。だから、いつでも何かに縋(すが)りたくなる。
卓球が上手な、あの子もそうなのかな。
彼女はテレビで「私と母は、選手とコーチの関係が抜けてないんです」といい、週刊誌には「満月のように見えるかもしれませんが、私は三日月よりも欠けています」と話していた。
2人きりでは詰問するが、人前では褒める。その時はうまく言葉にできなかったが、私は自分のことを母の二次的な栄光、つまり「自分は母のトロフィーなんだ」と感じていたようだ。
“英語教師の息子”ではなく私という存在そのものを認めてほしい。そして、誰かとともにいることで安らぎたい。
私は、心を許せる人が欲しかった。でも、その作り方がわからなかった。
そもそも認められるというのは、どういう状態を指すのか。安心感とは何か。
学校では嘘をついたり人を殴ったり、暴言を吐いたりした。大人になってもそうだ。すぐに距離を縮めようとしたり、引き止めるために身体に触れたり、自ら差し出したりしてしまう。
本当は仲良くしたかった。でも認めてもほしいし、安心もしたかった。だから、距離をゆがめてしまう。
交差点はまだ雨を打っている。老人はブレーキが壊れて、利かなかったと主張している。
成長するにつれ、違う英語教室にも通うようになった。
私は英語の勉強に意味を求めるようになった。でも、「いつかわかるから」といわれた。そして、他の道を提示されることはなかった。
英語の勉強を当然だと母は考えている。だけど、“どうして当たり前なのか”を私は知りたかった。それは1人で考えなさい、ということなのか。
それでも見放されるのが怖いから、義務のようにこなした。喜びは見出せず、次第に成績が下がっていく。
そんなある日、遊びから帰ってきたら、机にノートがあった。当時、私は母と2人で英語検定の勉強を毎日していて、そのノートだった。表紙は黒地で、近づくと、何か書いてあることに気づいた。
それは白の細ペンで描かれたブタだった。ブタはサングラスをかけており、顔には怒っているようなマークがあった。
横には吹き出しがあり、そこには「ヤルキのないやつはキエロ!」と殴り書きがされていた。
もう続けるしかないんだ、と思った。
その後、高校では英語の進学コースに行き、大学も夜間とはいえ、公立の外国語大学に進むことができた。でも私にとっては目の前の課題、それも行動する意味もわからないなか、必死でこなしてきた日々だった。決して、自分を肯定する理由にはならなかった。
だから母が、大学受験の合格を親戚に、電話で涙ながらに伝えている背中を見ながら「こうして、彼女の実績になっていくんだろう」と思った。
また母は叔父と私の三人で食事をした時、「この子を英語の学習塾に通わしたのは、偵察の意味もあったからラッキーやったよ」「結果的にいい大学にも行けたし」と言っていた。策略家であるかのように話すのも、美談にするのも、どちらも不愉快だった。
私たちは親子の前に、教師と生徒だった。そして、親子関係にスライドすることができなかった。それは、どうして?
みかんは実って、机に置かれた。しかしその表皮は、内側を教えない。
ずっと不安だった。何をされても母を信じることができなかった。
課題をクリアするたび、褒美をもらう。私はときに、戸惑った。“喜ばなくてはならない”という義務感を覚えていた。
そして、父親はずっと部屋にひきこもっていた。病に倒れ職をなくした後、趣味もなく友人もおらず、テレビを見ては眠りこけるだけ。家事もしない。どれほど英語を勉強しても、何かのキッカケがあれば、私もいつかこうなるのかと思った。また姉とは年齢もジェンダーも違うため、別の言語の人、と感じていた。
私は物心ついたときから、誰に対しても安心感を覚えることができないでいた。信頼することができず、誉められたり、愛情を示す行動をされても、言葉も思いも空気を撫でるだけだった。そして、愛情の示し方もよくわからない。
どんな関係であっても、切り離されることに怯えてしまう。突然距離を置かれるのでは、といつも不安を抱えている。だから、どこにいても居心地が悪い。
どうして、ここにいるんだろう。これは“ここにいてもいいのか”という問いである。
私は英語の試験や、高校や大学受験の時、いっそう緊張がひどかった。それはいい成績を残したり合格したりして、きちんと“英語教師の息子であること”を達成できるかどうかが不安だったからだ。
そうした精神面のことを1人で対処してきた。といっても、「自分を信じて」と唱えることくらいだったけれど。
勉強は2人でするけど、気持ちの部分は1人でしなさい。でも強い緊張を与えるし、なじりもするから。それを幼少の頃から、ずっと。
だから実家を出る時、「1人で生きてきたような顔しやがって!」と泣きながら怒鳴られても、何も響かなかった。
英語のこと、家族のこと。それらを通して、強い緊張があった。そうして育つと、自律神経が狂いやすくなると聞いた。
また母も父も、家族として機能していなかった。安心感を覚えずに育つと、不安に対する感覚が人一倍強くなるといい、そうしてパニックを起こしやすくなるといわれている。
私は小学2年生の頃、給食を食べられない時期があった。
ことの発端は、私が食べ過ぎてしまったことだった。ある時、私はお菓子を食べ過ぎた。食べているときは快楽だった。しかし、それを夜にもどした。
母がそれをとても嫌そうな顔で見つめていた。それは当然のことだ。そのいっぽう、私はその時、「食べ過ぎに注意しよう」ではなく「母に迷惑をかけてはならない」と真っ先に思った。
しかし、“迷惑をかけない量で食べる方法”がわからなかった。そもそも食べる時に、食べ過ぎかどうか、わからなかったから嘔吐したのだ。
そうして私は、“食べること”そのものを怯えるようになった。食べる量だけでなく、口の中に何かが入り、それが自分の身体に害を及ぼす可能性を恐れるようにもなった。
食べることに不安を覚えるうち、給食を食べる時間が近づくと過呼吸になり、吐き気が止まらなくなった。
黒板の文字、チョークの音。教室の匂い、背中から伝わる椅子の質感。唾の味。なだれこむ五感の情報を整理できず、誰の言葉も頭に入ってこない。
給食のたび保健室に行った。そして不思議なことに「何も異常はないよ」と言われると、パニックがおさまる。過呼吸も吐き気も、気の動転も、何事もなかったかのように収束する。そして、教室に戻ると、給食を食べることができる。それを毎日繰り返した。
だから、“食べられない時期”というのは少し語弊がある。“パニックを起こすことなく、食べることができなかった時期”というのが正しい。
給食だけではなく、土日の夕飯の時にもパニックは起こった。そして一番困ったのは、親戚や友人家族らと食事をともにするときだった。親戚一同で行った中華料理店では、過呼吸と吐き気が止まらなくなり、ずっと長椅子に寝転がり気を鎮めるしかなかった。
明確な理由なくそんな状態になる私は、その度、注目を集めてしまう。私はそれが怖かった。いつも誰もいない、静かな場所に逃げ出したかった。いなくなりたかった。
そうした日々を数ヵ月過ごし、学校から「根岸くんは給食の前に体調が悪くなる」と担任が連絡し、母も「休日もそうで困ってる」とやりとりをした。そして、私は病院に連れられていった。
医師は、こう話した。これは思い込みの激しい人がなりやすい症状です。自分が病気だと信じ込んで、体調を悪くするんです。
「思い込みって」と母は呆れたようにいった。それは多分、彼女なりのコミュニケーションだったのだろう。
でも私は、ますます自分がわからなくなった。私自身では操縦できない“心”というものは、こうも生活を左右するものなのかと思った。思い込みを止めることなんてできない。ますます、不安でたまらなかったし苦しかった。
心が怖かった。そして自分を責め、母に申し訳ないと思った。
以降も、パニックは不定期で起こった。そして歳を重ねるにつれ、不安に対する恐怖心がいっそう強くなっていった。
電車が怖い。この電車に乗ると、頭がおかしくなるのではと思い、逃げ出してしまう。
人混みが怖い。満員の映画館が怖くて、動悸がおさまらない。トイレに思わず駆け込んでしまう。
誰かと食事をするのが怖い。指を強く握り、歯を食いしばる。黙り込んでしまう。
不安が収まると、途端に悲しくなる。苦しみがぶり返して、ときに歩きながら涙が止まらなくなる。
私は、人前で演奏することをやめてしまった。
そして、コロナもやってきた。
今の仕事を始めて4年目。慣れてきたというのもあるし、編集部との信用関係も生まれている。だからこそ、「誰にも迷惑をかけてはならない」との理由で不安の種を見逃せなくなってしまう。
仕事でインタビューをするとき、緊張感の高まりから息苦しくなる自分がいる。その場を仕切らなくてはならない。それに、ずっと話し続けなくてはならない。子供の頃から、「今、話し方や呼吸の仕方を忘れてしまったらどうなるんだろう」と考える癖があったが、その不安が毎度ぶり返す。
そして、アンカーの仕事も私にとって負荷になっていた。毎週金曜、何があっても休んではならない。そう編集部と約束したわけではないが、せっかくもらった仕事だし、なるべく関わっていたい。
そう思うたびに、水曜の夜から不安でたまらなくなってしまう。些細な腹痛に気を揉み、ときに吐き気を催し、手が震え過呼吸になる。
「これを食べると嘔吐する」との妄念にとりつかれ、1時間かけて調理したものを、途端に全部ゴミ箱に投げ込んだ朝。苦しくて悲しくて、「もう終わりにしたい」と涙が止まらなくなった時。母から「クリスマスプレゼント」と直筆でハートマークの付いた小包が届いても、ありがたいな、という気持ちよりも先に、「どこまで無神経なんだろう」という気持ちが先に立ってしまう。
私は母のことを、母として受け止められていない。父親も、そう。産まれるキッカケを与えられたり同じ屋根の下で暮らしても、それだけでは親子にはなれない。
だからどんな形で愛情を示されても、それを受け入れる土台がないから困ってしまう。しかし、それを愛情として受け入れなくてはならないから齟齬が起こる。プレッシャーも強くなる。
母が愛情として示すものを受け止められない自分は、ずっとおかしいんだと思ってきた。人と違い、心に問題があるのだと思っていた。
でも今は、親子で築くべきものを築いてこれなかったんだ、と思う。だから母が、きちんと親子関係を築いた人たちと同じように、「これが愛情だ」と彼女が信じているものを示されるたびに、私は苦しいんだ、とも思う。
私は生まれてからの、32年間の“関わり方”を理解するのに長い時間を費やしてきた。突如襲われる不安に苦しみながらも。大人になって、やっと「パニックとはうまく付き合っていくしかないんですよ」と言われても。
親密な関係を築いた人に見放されることが怖くて、ひどく労力を使ったり。それでも距離を置かれても。
いっぽう自分を受け止めてもらおうと、誰かを傷つけたり嫌われたりしながらも。
その間に欠けてしまったものは、いっぱいある。
そう、いっぱいある。
だから、ねえ。
私と同じように、
あなたも、私とのこれまでを考えてほしい。
声に出すと、
影が深まる。
■
背骨を駆けて、私の頭上から赤いものが噴き出す。
地に落ちたそれは綱のように、交差して締め上げられたもので、太く、私はそれを見つめる。
目も口も耳も鼻も、四肢もないそれは、うずくまりもがいている。
怒気をはらんでいるように、今にもはちきれんばかりの、赫赫の肢体を地に擦り付けることをやめない。引き連れてきた肉片が、濡れた路面にこびりつく。
私はそれを踏みつけることも、慰めることもできないでいる。
あかくもがいて、これから死んでいく。
それは、私の一本だった。
■
雨が和らいだ頃、池袋に着いた。喫煙所を探した。映画館のそば、いつも煙のなか、誰かが屯している公園を思い出した。
深夜3時、遠い声。近づいてきた男の子たちは私より若く、2人は石のベンチに座るとキスを始める。
線路の傍、タバコに火をつける。目に入るのはコンビニとボーリング場、遠くにソープ店。そして、それらに目を逸らすよう神社が佇んでいる。
煙を吸って吐いて、風に混ぜる。いつまで、こんなまずい煙を吸い続けるのだろうか。
ふと目線を落とすと、煉瓦造りの花壇。そして、粗末に並べられたゴミたち。その中に、預金通帳があった。
通帳は2つあった。ペラペラとめくっていく。元々の金額は100万円ほどだったが、それが何かの拍子で失われていく。1冊目にはその過程がつづられ、2冊目では始まってほんの数ページで、10円程度になっていた。
通帳の周りには、診察券やポイントカードが束になって落ちていた。ゴムで一まとまりにされたそれら。名前を確認する限り、持ち主は通帳の人物と同じようだ。
弱りながらも、いまだ強度を持つ。ゴムに束ねられた暮らしの痕。
警察に届けようと吸い殻をつぶす。
どうして、ここにいるのか。
振り返ると「喫煙厳禁」と書かれた看板があった。