020

花を、女優に渡すつもりでいた。新しい事務所と初めての主演映画。インタビュー写真に彩りを増やしたかった。その後、お祝いもかねて渡そうと考えていた。

春先の、青白い花弁。しかし当日、彼女には別の仕事があることを知った。花を手に行動するのは不便かもしれない。

手渡すということは、ときに相手の寛容さに甘えることがあり、撮影が始まると枝の長さをいくたびか調節し、ポツポツと、切られたところから白い液体が漏れていた。

花を持ち帰り、グラスに挿す。彼女なら花瓶を用意できただろうか。



花を飾るのはいいですよ。整体の先生は、そう言っていた。整体の部屋、茶と黒のあわいのような色合いの花瓶。細い花を挿していた。先生はさっきのようにいい、古い一軒家なら尚更ですよ。土壁で畳に花なんて、ぴったりじゃないですか。

有機的、というんでしょうか。生きているものが増えるということですから。



古い家の裏には庭がある。私の家のものではなく、裏の家の敷地に一本の大樹。それを中心にして、家庭菜園や草花が見える。公共の場所で見る植物の並びとはどこか趣が違う。雑然としているが、手作りの統一感がある。管理者の手ぐせが出るのだろうか。

2年前に初めて、その庭を見た。窓のそば、日の光と風のままに「この家にします」と業者に伝えた。



朝、白湯のために水を沸かす。その間に、玄関の閾をあける。靴箱の上からグラスを持ち出し、シンクで花の水を変える。

沸き上がるまでの時間に花を眺める。毎日のルーティンが増える。

数日で、グラスの水に白い液体が混ざらなくなっていることに気づいた。夜のうちに花びらは、そっと枝から下りている。花の、ささやかな呼吸を思う。



5月のある日、眩しい日差し。もう一つの日課である“タバコを吸いながら野菜ジュースを飲みながら、窓から庭を眺める”をしていた。すこし覗けている、裏の家の玄関前に人だかりができていた。

表情はよく見えない。でも、一様に黒い服を着ている。それぞれの言葉は小さいながら重なり合う。まとまった音量はあるはずなのに細部は聞き取れない。

車の出て行く音がする。その後、彼らは家に戻って行った。



ときは過ぎ、私は花を埋めた。家の隣に空き地がある。野草は空へと急いていて、花のために土をひらいた。

6月の雨は、土に染み入るだろう。その水で花が潤う様子を思い描く。



夏になると、裏の庭は真緑に覆われていた。大樹の葉は横へ広がろうとして、花はかすかにしか見えない。雑草は自生し、上下左右、それぞれ違うところを目指している。

庭に風が吹く。涼しげに揺れる。彼らの一つ一つが風にふれては鳴っている。戸惑うようで、まとまりがない。

風は、くたびれてしまった。吹き続けることなく、私の口から漏れた煙をつれて。彼らの音を乱したまま。

日は影をあずけ、それぞれが暗がりを作っていた。

庭は統べる誰かを待っている。生きているものたちが、待っている。



9月、バスを待っていた。すると傍を、思い思いの足取りで歩く青年たちが通り過ぎていった。

1人が立ち止まる。しずかにメロディを口ずさみながら、手にした小枝をやさしく振っている。

青年は枝を振ってはやめ、振ってはやめを繰り返していた。他の青年たちは前進する。いっぽう、ひとりで下を向き枝を振る。

施設に持っていっちゃダメですよ。声がした。少しすると、彼は名残惜しそうに指揮をやめた。

排水溝に小枝を落とす。枝のおりた場所を眺めている。私は小枝に保たれた青年の熱を思っている。



彼は歩みはじめて、ふと立ち止まった。こちらを振り返る。目があった。

一見、無表情だった彼はその後、微笑んで、そして「バイバイ」と手を振ると、仲間のもとへと走っていった。

019

金曜の深夜、週刊誌の編集部。「文章よくまとまってましたね」と声をかけてもらう。

帰る支度をする。コーヒーカップを洗ってコートを着る。パソコンはそのままにしておく。

ふと周りを見渡すと、自分の班以外に人がいない。さらさらと、テレビから乾いた音が流れている。

私はどうして、ここにいるんだろう。

 

毎週金曜は校了の日で、私はアンカーという仕事を任されている。

その日、現場を走る記者たちの集めたデータが編集部に集まり、編集担当が記事の構成を考える。そしてアンカーは、データと構成をもとに原稿を書く。1ページで2時間、2ページだとその倍ほどの時間をかけて書き上げていく。自分で、補足のデータを用意することもある。

以前は不定期に仕事をもらっていたけれど、この8ヵ月ほどで毎週携わるようになった。

 

会社を出ると、雨が降っている。傘をさすと次第に大雨となり、視界が霧のようにぼやけている。

光をなくし、色の薄れた街角。その中に、爛々としたコンビニの灯り。見つめる場所からの角度もあって、チャーリー・ヘイデン『ノクターン』のジャケみたいだ、と思う。

そのコンビニに入る。かじかむ指でハイボール、そして切らしていたタバコを一つ。

手際良くレジを進める店員は、東南アジアから来たと耳にしている。会計に手間取る私より、この店のこと、そしてこの地域のことなら、知ってることもきっと多い。

ハイボールの缶を開け、雨のなかを歩いて行く。途中、買い出しに出た編集の人とすれ違ったものの、傘を持たないその人は下を向いていて、私たちは挨拶をせずにその夜を終えた。

 

よくまとまってましたね。この言葉が、ずっと胸で疼いている。

私は、いつも自信がない。時間内に文章を書き上げても。そして、どんな言葉をかけられても。

本格的にアンカーに携わるようになったのは、ある役者が新型コロナで亡くなったことがキッカケだった。取材も自分でして、それを元に原稿を書いた。すると編集の方が「もういうことないね。毎週お願いしてもいいかな」と言った。

すみません、ありがとうございます。私はなぜか謝ってしまう。

「根岸さんに毎週お願いしようと思うんです」と伝えられると、別の編集は「さっき謝ってましたけど?」と頭を上げずにいう。

これからもお願いします。その念押しに、私は吃りながら返事をする。

翌週号には、私の書いた原稿がほとんど修正されないまま掲載されていた。そして、やはり金曜にはアンカーの仕事がやって来た。

 

編集の人たちは、ことあるごとに褒めてくれる。全く問題ないです。ここの書き方いいよね。“根岸節”が利いてるよね。

でも私は、いつも対応できないでいる。生返事か、苦笑いみたいになってしまう。

 

なぜ、そうなるのか。

みんな、私のために褒めてくれている。私を鼓舞して、士気を高めようとしている。それは私のスキルが不足しているから。私に足りないところが多いから。それでも、とりあえず頑張ってもらうしかないから。

だから少しのキッカケがあれば、放り出すのではないか。手綱はいつか、はずされるのでは。本当は、みんな私を疎ましく思っているのではないか。

根拠なく、そんな風にばかり感じてしまう。

 

編集の彼は、私にアンカーの仕事を任せるたび、アメを机にそっと置くようになった。

色とりどりのアメ。ありがとうございます、と私は毎度頭を下げる。

頭を下げるたびにアメの量は多くなり、冬の間にいつしかそれがミカンに変わった。

 

ハイボールを啜りながら、立ち止まる。通りかかった店先の、ガラスに映し出された自分を見つめる。私は、いつまで不安なのだろう。

編集部に根拠のない不信感を抱いているのは、そもそも失礼な話だ。しかし、信じられないでいる。元をただせば、自分の仕事ぶりを信じていない。だから、ますます苦しい。そんな自分のことが日に日に嫌になる。

 

今の仕事を始めて1年経った頃、私の父が亡くなった。その時、編集長が花を送ろうかと提案した。

毎回誰かの家族が亡くなるたびに花を送るのか、と思い、編集長という仕事は律儀というか、大変だなと思った。

そう編集の人に漏らすと、「いや、編集長は根岸くんのこと気に入ってるからなぁ」と言った。

私はその一言に驚いてしまった。もちろん喜びまじりで、でもその一方、“気に入ってもらっている状態”をいつまで維持できるのだろう、と思った。期待を裏切らないように、と気が重くなり、次第に胸が苦しくなった。

私はいつも、切り離される瞬間を恐れている。

 

煩悶するたび、気持ちがどんどん追い詰められていく。

同じ不安を繰り返している。その度、頭が熱を持ち、気が狂いそうになる。

私はいつか、本当に気を違えてしまうのではないだろうか。

 

いつしか、公園に辿り着いた。そこには事故で亡くなった、母子を悼む石碑がある。

強く結びついた2人の碑は、円を描いている。

 

私は2歳の頃から、母親に英語を教わってきた。英語教室を開いていた母とマンツーマンのレッスンだった。

母は人前で私を褒めるけれど、2人きりの時は褒めなかった。「なんでこれがわからんの?」「さっきも言ったやんか」と詰問する母。でも、人前では褒めてくれる。うんと褒めてくれた。

その二面性に怯えていた。「母の考えていることがわからない」と思っていた。しかし「誰の考えもわかるはずはない」と疑問を流していた。

でも、当時の自分に今ならこう教えてあげられる。君が気にしているのは“母の考え”ではなくて、“母がどういう評価を君に下しているのか”だよ、と。

 

私が彼女に怯えたのは、彼女が私の母であり、尚かつ教師だからだ。純粋に教師という任務を背負った人には、逆らうことができる。他人だから、抵抗することができる。行き違えば、距離を置くことだってできる。

しかし、“母であり、教師でもある”はどうだろうか。いわんや幼い頃から、その関係が当然のものとしてあったのならば。

見放されることが怖かった。甘えても、どこかに不信感があった。

 

いつしか私にとって、母はルールとなった。母に言動を合わせることでしか、正解を導けなかった。白といえば白。黒といえば黒。そして、これは彼女の性格に大きく由来するものだが、その白や黒の基準はすぐに変わる。

何かをすると、彼女の評価が下される。いっぽう、何もしないでいると「何ぼーっとしてるの」「ほんまにマイペースなんやから」と言われる。常に彼女の正しさに支配される。

そういうコミュニケーションなんだと、今では思う。それは、おっとりした義兄とのやりとりを見ていても思う。

でも、私は不安と緊張の中にいた。だから、いつでも何かに縋(すが)りたくなる。

 

卓球が上手な、あの子もそうなのかな。

彼女はテレビで「私と母は、選手とコーチの関係が抜けてないんです」といい、週刊誌には「満月のように見えるかもしれませんが、私は三日月よりも欠けています」と話していた。

 

2人きりでは詰問するが、人前では褒める。その時はうまく言葉にできなかったが、私は自分のことを母の二次的な栄光、つまり「自分は母のトロフィーなんだ」と感じていたようだ。

“英語教師の息子”ではなく私という存在そのものを認めてほしい。そして、誰かとともにいることで安らぎたい。

私は、心を許せる人が欲しかった。でも、その作り方がわからなかった。

そもそも認められるというのは、どういう状態を指すのか。安心感とは何か。

学校では嘘をついたり人を殴ったり、暴言を吐いたりした。大人になってもそうだ。すぐに距離を縮めようとしたり、引き止めるために身体に触れたり、自ら差し出したりしてしまう。

本当は仲良くしたかった。でも認めてもほしいし、安心もしたかった。だから、距離をゆがめてしまう。

 

交差点はまだ雨を打っている。老人はブレーキが壊れて、利かなかったと主張している。

 

成長するにつれ、違う英語教室にも通うようになった。

私は英語の勉強に意味を求めるようになった。でも、「いつかわかるから」といわれた。そして、他の道を提示されることはなかった。

英語の勉強を当然だと母は考えている。だけど、“どうして当たり前なのか”を私は知りたかった。それは1人で考えなさい、ということなのか。

 

それでも見放されるのが怖いから、義務のようにこなした。喜びは見出せず、次第に成績が下がっていく。

そんなある日、遊びから帰ってきたら、机にノートがあった。当時、私は母と2人で英語検定の勉強を毎日していて、そのノートだった。表紙は黒地で、近づくと、何か書いてあることに気づいた。

それは白の細ペンで描かれたブタだった。ブタはサングラスをかけており、顔には怒っているようなマークがあった。

横には吹き出しがあり、そこには「ヤルキのないやつはキエロ!」と殴り書きがされていた。

もう続けるしかないんだ、と思った。

 

その後、高校では英語の進学コースに行き、大学も夜間とはいえ、公立の外国語大学に進むことができた。でも私にとっては目の前の課題、それも行動する意味もわからないなか、必死でこなしてきた日々だった。決して、自分を肯定する理由にはならなかった。

だから母が、大学受験の合格を親戚に、電話で涙ながらに伝えている背中を見ながら「こうして、彼女の実績になっていくんだろう」と思った。

また母は叔父と私の三人で食事をした時、「この子を英語の学習塾に通わしたのは、偵察の意味もあったからラッキーやったよ」「結果的にいい大学にも行けたし」と言っていた。策略家であるかのように話すのも、美談にするのも、どちらも不愉快だった。

 

私たちは親子の前に、教師と生徒だった。そして、親子関係にスライドすることができなかった。それは、どうして?

みかんは実って、机に置かれた。しかしその表皮は、内側を教えない。

 

ずっと不安だった。何をされても母を信じることができなかった。

課題をクリアするたび、褒美をもらう。私はときに、戸惑った。“喜ばなくてはならない”という義務感を覚えていた。

そして、父親はずっと部屋にひきこもっていた。病に倒れ職をなくした後、趣味もなく友人もおらず、テレビを見ては眠りこけるだけ。家事もしない。どれほど英語を勉強しても、何かのキッカケがあれば、私もいつかこうなるのかと思った。また姉とは年齢もジェンダーも違うため、別の言語の人、と感じていた。

私は物心ついたときから、誰に対しても安心感を覚えることができないでいた。信頼することができず、誉められたり、愛情を示す行動をされても、言葉も思いも空気を撫でるだけだった。そして、愛情の示し方もよくわからない。

どんな関係であっても、切り離されることに怯えてしまう。突然距離を置かれるのでは、といつも不安を抱えている。だから、どこにいても居心地が悪い。

どうして、ここにいるんだろう。これは“ここにいてもいいのか”という問いである。

 

私は英語の試験や、高校や大学受験の時、いっそう緊張がひどかった。それはいい成績を残したり合格したりして、きちんと“英語教師の息子であること”を達成できるかどうかが不安だったからだ。

そうした精神面のことを1人で対処してきた。といっても、「自分を信じて」と唱えることくらいだったけれど。

勉強は2人でするけど、気持ちの部分は1人でしなさい。でも強い緊張を与えるし、なじりもするから。それを幼少の頃から、ずっと。

だから実家を出る時、「1人で生きてきたような顔しやがって!」と泣きながら怒鳴られても、何も響かなかった。

 

英語のこと、家族のこと。それらを通して、強い緊張があった。そうして育つと、自律神経が狂いやすくなると聞いた。

また母も父も、家族として機能していなかった。安心感を覚えずに育つと、不安に対する感覚が人一倍強くなるといい、そうしてパニックを起こしやすくなるといわれている。

 

私は小学2年生の頃、給食を食べられない時期があった。

ことの発端は、私が食べ過ぎてしまったことだった。ある時、私はお菓子を食べ過ぎた。食べているときは快楽だった。しかし、それを夜にもどした。

母がそれをとても嫌そうな顔で見つめていた。それは当然のことだ。そのいっぽう、私はその時、「食べ過ぎに注意しよう」ではなく「母に迷惑をかけてはならない」と真っ先に思った。

しかし、“迷惑をかけない量で食べる方法”がわからなかった。そもそも食べる時に、食べ過ぎかどうか、わからなかったから嘔吐したのだ。

 

そうして私は、“食べること”そのものを怯えるようになった。食べる量だけでなく、口の中に何かが入り、それが自分の身体に害を及ぼす可能性を恐れるようにもなった。

食べることに不安を覚えるうち、給食を食べる時間が近づくと過呼吸になり、吐き気が止まらなくなった。

黒板の文字、チョークの音。教室の匂い、背中から伝わる椅子の質感。唾の味。なだれこむ五感の情報を整理できず、誰の言葉も頭に入ってこない。

給食のたび保健室に行った。そして不思議なことに「何も異常はないよ」と言われると、パニックがおさまる。過呼吸も吐き気も、気の動転も、何事もなかったかのように収束する。そして、教室に戻ると、給食を食べることができる。それを毎日繰り返した。

だから、“食べられない時期”というのは少し語弊がある。“パニックを起こすことなく、食べることができなかった時期”というのが正しい。

 

給食だけではなく、土日の夕飯の時にもパニックは起こった。そして一番困ったのは、親戚や友人家族らと食事をともにするときだった。親戚一同で行った中華料理店では、過呼吸と吐き気が止まらなくなり、ずっと長椅子に寝転がり気を鎮めるしかなかった。

明確な理由なくそんな状態になる私は、その度、注目を集めてしまう。私はそれが怖かった。いつも誰もいない、静かな場所に逃げ出したかった。いなくなりたかった。

そうした日々を数ヵ月過ごし、学校から「根岸くんは給食の前に体調が悪くなる」と担任が連絡し、母も「休日もそうで困ってる」とやりとりをした。そして、私は病院に連れられていった。

医師は、こう話した。これは思い込みの激しい人がなりやすい症状です。自分が病気だと信じ込んで、体調を悪くするんです。

「思い込みって」と母は呆れたようにいった。それは多分、彼女なりのコミュニケーションだったのだろう。

でも私は、ますます自分がわからなくなった。私自身では操縦できない“心”というものは、こうも生活を左右するものなのかと思った。思い込みを止めることなんてできない。ますます、不安でたまらなかったし苦しかった。

心が怖かった。そして自分を責め、母に申し訳ないと思った。

 

以降も、パニックは不定期で起こった。そして歳を重ねるにつれ、不安に対する恐怖心がいっそう強くなっていった。

電車が怖い。この電車に乗ると、頭がおかしくなるのではと思い、逃げ出してしまう。

人混みが怖い。満員の映画館が怖くて、動悸がおさまらない。トイレに思わず駆け込んでしまう。

誰かと食事をするのが怖い。指を強く握り、歯を食いしばる。黙り込んでしまう。

不安が収まると、途端に悲しくなる。苦しみがぶり返して、ときに歩きながら涙が止まらなくなる。

私は、人前で演奏することをやめてしまった。

そして、コロナもやってきた。

 

今の仕事を始めて4年目。慣れてきたというのもあるし、編集部との信用関係も生まれている。だからこそ、「誰にも迷惑をかけてはならない」との理由で不安の種を見逃せなくなってしまう。

仕事でインタビューをするとき、緊張感の高まりから息苦しくなる自分がいる。その場を仕切らなくてはならない。それに、ずっと話し続けなくてはならない。子供の頃から、「今、話し方や呼吸の仕方を忘れてしまったらどうなるんだろう」と考える癖があったが、その不安が毎度ぶり返す。

そして、アンカーの仕事も私にとって負荷になっていた。毎週金曜、何があっても休んではならない。そう編集部と約束したわけではないが、せっかくもらった仕事だし、なるべく関わっていたい。

そう思うたびに、水曜の夜から不安でたまらなくなってしまう。些細な腹痛に気を揉み、ときに吐き気を催し、手が震え過呼吸になる。

 

「これを食べると嘔吐する」との妄念にとりつかれ、1時間かけて調理したものを、途端に全部ゴミ箱に投げ込んだ朝。苦しくて悲しくて、「もう終わりにしたい」と涙が止まらなくなった時。母から「クリスマスプレゼント」と直筆でハートマークの付いた小包が届いても、ありがたいな、という気持ちよりも先に、「どこまで無神経なんだろう」という気持ちが先に立ってしまう。

 

私は母のことを、母として受け止められていない。父親も、そう。産まれるキッカケを与えられたり同じ屋根の下で暮らしても、それだけでは親子にはなれない。

だからどんな形で愛情を示されても、それを受け入れる土台がないから困ってしまう。しかし、それを愛情として受け入れなくてはならないから齟齬が起こる。プレッシャーも強くなる。

母が愛情として示すものを受け止められない自分は、ずっとおかしいんだと思ってきた。人と違い、心に問題があるのだと思っていた。

でも今は、親子で築くべきものを築いてこれなかったんだ、と思う。だから母が、きちんと親子関係を築いた人たちと同じように、「これが愛情だ」と彼女が信じているものを示されるたびに、私は苦しいんだ、とも思う。

 

私は生まれてからの、32年間の“関わり方”を理解するのに長い時間を費やしてきた。突如襲われる不安に苦しみながらも。大人になって、やっと「パニックとはうまく付き合っていくしかないんですよ」と言われても。

親密な関係を築いた人に見放されることが怖くて、ひどく労力を使ったり。それでも距離を置かれても。

いっぽう自分を受け止めてもらおうと、誰かを傷つけたり嫌われたりしながらも。

その間に欠けてしまったものは、いっぱいある。

 

そう、いっぱいある。

だから、ねえ。

私と同じように、

あなたも、私とのこれまでを考えてほしい。

 

声に出すと、

影が深まる。

背骨を駆けて、私の頭上から赤いものが噴き出す。

地に落ちたそれは綱のように、交差して締め上げられたもので、太く、私はそれを見つめる。

目も口も耳も鼻も、四肢もないそれは、うずくまりもがいている。

怒気をはらんでいるように、今にもはちきれんばかりの、赫赫の肢体を地に擦り付けることをやめない。引き連れてきた肉片が、濡れた路面にこびりつく。

私はそれを踏みつけることも、慰めることもできないでいる。

あかくもがいて、これから死んでいく。

それは、私の一本だった。

雨が和らいだ頃、池袋に着いた。喫煙所を探した。映画館のそば、いつも煙のなか、誰かが屯している公園を思い出した。

深夜3時、遠い声。近づいてきた男の子たちは私より若く、2人は石のベンチに座るとキスを始める。

 

線路の傍、タバコに火をつける。目に入るのはコンビニとボーリング場、遠くにソープ店。そして、それらに目を逸らすよう神社が佇んでいる。

煙を吸って吐いて、風に混ぜる。いつまで、こんなまずい煙を吸い続けるのだろうか。

ふと目線を落とすと、煉瓦造りの花壇。そして、粗末に並べられたゴミたち。その中に、預金通帳があった。

通帳は2つあった。ペラペラとめくっていく。元々の金額は100万円ほどだったが、それが何かの拍子で失われていく。1冊目にはその過程がつづられ、2冊目では始まってほんの数ページで、10円程度になっていた。

通帳の周りには、診察券やポイントカードが束になって落ちていた。ゴムで一まとまりにされたそれら。名前を確認する限り、持ち主は通帳の人物と同じようだ。

弱りながらも、いまだ強度を持つ。ゴムに束ねられた暮らしの痕。

 

警察に届けようと吸い殻をつぶす。

 

どうして、ここにいるのか。

振り返ると「喫煙厳禁」と書かれた看板があった。

 

018

仕事の帰り道で、慰霊碑に気づく。

公園のなか、まっ白で巨大な球。蕾をモチーフにしていて、渦のような意匠がある。それはフレンチに行く途中の高齢者に轢かれた、母娘を悼むものだった。

当時、同じような事故が神戸でもあった。帰省していた私にとってはそちらのほうが印象に残っていて、東京に戻って、帰りの道で献花台を見て「あぁ、“池袋”ってここだったのか」と思った。

献花台は事故の起こった交差点の隅にあった。そこには花やお菓子、飲み物があった。

日に何人も訪れそれらを手向けたが、毎回とたんに消える。しかし、また続々と増えていく。

献花台が撤去されると、車道と歩道を隔てる鉄柵に花は供えられた。音楽を聴きながら、2つの命が潰えた場所を通り過ぎる。場違いな私を、並ぶ花々が見つめているような気がした。

いま散らばった赤は、脱色されて白くまとまっている。抉(えぐ)られながらも、まるい結晶としてこの地に影を落としている。

 

歩き続けて、入った喫茶店。水出しのコーヒーが一滴ずつ、器具の中を下りていく。チューブの中でぐるぐると周り、やがて波紋になる。

大きな声がする。耳を澄まそうとしなくても聞こえてくる言葉たち。飲食店の経営者と従業員のようだ。

「本気で宣伝してくれよ」という滾(たぎ)るような声。お前の底力見せろよ、ともいう。少し前なら、「うるさいな」と思ったのだろうけれど。

彼らはマスクを外さない。誰かのことを思いながら、自らのこれからを見落とさないでいる。

 

ある深夜、校了を手伝った仕事帰り。コンビニで買ったアイスを食べながら歩いていると、献花台のあった場所に自転車が立てかけられていた。

そこに屯(たむろ)する若者たち。すると、そのうちの1人が鉄柵に足を置いた。

そして力強く、ぐいと踏む。前屈みになると靴ひもを結び始めた。

 

それを見届けた私は、慰霊碑を覗く。

舞いを終えたように、親しげに花が2つ重なっている。

017

マスクをつけて実家に帰る。

母は、顔の下半分を隠す息子を見て「やっぱコロナか」という。まだ兵庫県は感染が確認されていなかった。東京はもっとすごいんか、仕事は大丈夫か。矢継ぎ早に訊ねる母に、一息ついてから「親知らず抜いてん」と私は話す。

その2日前、親知らずを抜いた。それは右下の奥歯の、もう一つ先にあったものだ。「抜く」とはいうが麻酔をし、器具を用いて砕いた。大柄の医師は貧乏ゆすりをしながら「頬が数日、腫れますからね」と言った。

あんまり膨れてないけど。マスクを取った姿を見て、母はそう言う。そしてテレビをつけ、aikoの無観客ライブを見始める。どうやらYouTubeと繋がっているらしい。

私は、親知らずを抜いて顔が変わってしまった。一時的とはいえ、自分そのものが変わってしまったような気がして心許ない。右頬にあるコブがいつも煩わしい。顔の変化を受け止めきれず、あやふやでモヤモヤとした存在のように感じる。だから、母の反応を信じることができない。

その夜、友人らに会う。引っ越ししたんやろ、と彼らは訊ねる。なんでそこにしたん。住みやすいのか、便利なのか。

秋に引越しをし、SNSを通じてそう伝えた。今住んでいるところは交通が便利で、新宿にも15分で行ける。複数の駅にアプローチできる上に編集部も近い。そんな話を繰り返すたびに、ふと私は、もう関西の人間ではないんだと思う。

もっというと明石でも神戸でも、つい先ごろ離れたばかりの国分寺の人でも、もうない。そして、そんな自分をネガティブに捉えていると気づく。

いつでも身軽な友人がいる。彼は自分の思い立った地で暮らし生きている。飽きたら、また別の場所を探し訪れる。彼はそんな人生を受け入れている。

私はそうではない。どこかに根付きたいと思っている。でもそれがいつも上手くいかなくて、これまで転々としてきた。

だから、どんな時も自分でないような気がする。アイデンティティがいつもぶれる。軸がなくて、何かにすがりたい。顔が変わっていなくても、私はまだ私になれていない。

 

関西に滞在し3日目の夜。1人で梅田に出る。

久しぶりに来たが、あまり変わっているようには見えない。強いて言うなら、ESTの中にフードコートができていて賑やかだ。

ぼんやりと人気のない新宿の姿を思い出してみる。でも、関西弁を聞くと落ち着いた。

喫茶店に入り、硬い椅子に座り記事を書く。それはお笑いの大会で優勝した、ある芸人のネタについてだった。

審査員投票でも視聴者投票でも断トツ1位のネタは、しかし「女性のストッキングを切る。局部を切り取ると課金が必要になる」というスマホゲームを題材にしたもので「性暴力的だ」と女性たちから怒りの声が相次いでいた。

獲得点数と相対したとき、彼女たちの声は一部に過ぎない。でも正しさは多数決で決まることではない。どうしてもその反論を無視することができなかった。

「芸人のネタに怒りの声」とし、記事はアップされた。すると、罵詈雑言がすぐさま並んだ。クソフェミと揶揄され、水を差すなと言われた。お笑い一つで目くじらたてるなんて生きづらいでしょうね、という声もあった。

コメントを見るたびナイーブになっていく。じゃあ、見なけりゃいいのに。自らそう思いながら、彼女たちの声が再び暴力を振るわれている姿を眺めている。

私は彼女たちの声が届いて欲しいと思った。でも、ただただ否定的な言葉が連なっていく様子に心がかく乱される。その声を衆目に晒さない方が良かったのか。

地に足つかず、どこにもいない。そして自分であることも今、乱されている。自分を信じることに疲れてしまう。

オリンピックの都合で、まるで私の存在が顕在化し、いっそう確かなものになったような気がしていた。けれど子供の頃と変わらず、自分であっていいのか戸惑っている。

 

本当は心斎橋に出ようと思っていた。でもネットに増える激しい言葉の羅列、一つ一つに目を通すにつれ疲れてしまった。

とはいえ、それとは別に心斎橋を遠い場所のようにも感じている。関西に住んでいたころ、あんなに飲みに出かけたのに。今の自分には、渋谷の方が心理的には近い。

店を出て歩くことにした。堂山は好きではない。阪急の方からNU茶屋町を尻目に、そのまま中津の方まで進んでいく。

するとレンガ造りのビルがある。その地下には、ビデオメーカーのしているアダルトショップがある。看板は出ていないが、低い声が2つ、地下から聞こえてくる。

この店には入ったことがない。でも関西にいた頃から、大阪に来るといつも店の前まで来てしまう。

堂山にある系統を共にする店たちから距離を置いている。周りもあまり騒々しくない。バス停の近く、息を潜めている。明るい茶色のレンガが少し煤けているのもいい。

店はいつからかあり、そして来店者の営みと交わっている。

3月の上旬だが暑く、ぬるい風。雨も少し降って、梅雨の頃の匂いがする。

ふと、私は関西で誰かと一緒に住みたかったんだ、と思い出す。

関西の言葉が好きだし、町の種類がたくさんある。特に大阪は都会から田舎までグラデーションがあって、ガチャガチャしてて居心地がいい。それに東京の笑いは、シュッとしすぎていて肌に合わない。

もう、その夢は絶ったけれど。でも、どこかで散らばって目映く輝いている。

 

高架を抜けて坂を上っていく。途端に道がひらけて、遠くのビルまで見渡すことができる。そして、十三まで橋が続く。

ふと声を出したくなった。関西の道は東京よりも広くて太い。反対側の道も遠くにあり、後ろから来る人さえ気にしていれば、それなりに大きい声を出しても見咎められることはない。

きらめく夜灯。巨大な黒い空のもと、あらゆる生活は壁に匿われている。私は自分の家から離れて、きっと1人で、ふいごのように誰のためでもなく肺をふくらませている。

そして、口をついたのが「10本の指紋で汚し続けた私をみて」という歌だったので笑った。

視界のひらかれた橋。ここは大阪と兵庫の境目が近く、鉄道は京都に続く。きっとどの町に属しても道が続いている限り、何も違いはない。自分の属している場所とそうでない場所の、境目を私はどう認識しているんだろう。

不安な時は何かに寄りかかりたくなる。大きなものであれば尚いい。それだけのことなのかもしれない。

あるアイドルもそう言っていた。そのいっぽうで彼は、大阪まで撮影できて内緒で環状線に乗ったといい「誰にも気づかれなかったので、羽を伸ばしました」とも回想していた。

ひとしきり大きな声を出して、気づけば十三に着いた。商店街を進む。

すると50代半ばくらいの男性が焦ったようにこちらへ向かってくる。銀縁のメガネをして真面目そうな顔つきだが、スタスタとしていて、ラフな格好でウォーキングの最中にも見える。

立ち止まり、何かを思い出そうとしている。でも、深く考えているようでもある。

振り向いて、彼は来た道を少し戻った。そして早口で値段を聞き、黙って手を差し出し、占い師に向かって静かに何かを打ち明ける。

翌日、岡山に帰って、出来たばかりの父の墓に手を合わせた。日々を報告しようとしたが、つるつるとしていて「まだここにはおらんかも」と母は言った。

016

仕事で横浜に行った。でも青葉台という山奥にある場所で「横浜」からはずっと遠い場所にあった。

9時に起きて10時に出た。昼の12時について、会場には3時間いた。それは元レスリング選手の主催する体操教室で、その人は思っていたよりずっと若々しかった。

横浜には海のイメージがあったので、仕事が終わったら刺身でも食べよう、と思っていたけれど、森林に囲まれると気が削がれる。

記事はもう書き終えていた。家に帰るにも呑むにもまだ早いが、観たい映画は終わっている。田園都市線だと直通で行けるので、とりあえず渋谷に出た。

ここ数週間、仕事で政治に言及する記事を書いている。基本的には本誌の記事を再利用する形で書いていて、でも記事に説得力を持たせるために調べることをやめない。いつもより倍以上の時間を使うこともある。

最初のほうは評判も良かったけれど、次第に雲行きが怪しくなってきた。「偏見報道」といったコメントがつき始めている。

「左向きな目しか持っていない」と糾弾されると、そうなんだろうと思う。でも、とも思うがその所為でこうして雑誌の名を落とすのは気がひける。自分でも「感情的で理想ばかり口にする」性格だと思うし、それはきっと罪深い。

これまでかけてきた迷惑ばかりを思い出してしまう。誰かに褒められたことなんて、まるでなかったかのように。梅雨空も相まって、自分に疲れてしまう。

渋谷に着くと、下りたことのない改札だった。でも前にも来たような気がする。ヒカリエと109をつなぐ通路があり、よく行く喫茶店を目指してマルキューのほうへと向かう。

人混みのなかで覚えのある顔を見かけた。それは以前働いていたビデオ屋のお客だった。

私が働いていたのは明石の駅前のビデオ屋で、その人は淡路島に住んでいた。当時、フェリーに乗ってわざわざレンタルしに来ていたようだ。

どうしてその人のことを覚えているのかというと、いつも灰色のスウェットで来ていて、接客が終わると例えば「借りましたビデオを、私は」という具合に主語や述語、ときに助詞を倒置したことを私に向かって言っていたからだ。そしていつも指をさして帰っていく。「また来るからな」と言うかのように、わたしの目を見て。

その人は自分の家の近所の人たちをたくさん殺してしまった。ビデオ屋を辞めて少し経った後、報道をテレビで見たとき思わず「アッ」と息を飲んだ。死を待つかそうでないか決められかねている人だから、きっと違う。

グラスと灰皿を渡される。父は30で、タバコを辞めたと言っていた。

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015

アンカーという仕事をしている。

編集部には現場をめぐる記者が複数におり、いくつかの情報が集まる。それらをもとに、ひとつの物語に沿って記事を作成するのがアンカーという仕事だ。

金曜の校了の日が出番で、記事の内容にもよるが仕事は日を跨ぐこともある。ときに夜食としてみんなでピザを食べたりもする。パーティのような台風の夜のような、不思議なにぎやかさがある。

終電を逃すとタクシーに乗って帰る。ビルを出るとタクシーが点々としている。わたしはそれらを尻目に横断歩道を渡り、家までの進行方向へと向いている車両に声をかける。

編集部からわたしの家まではだいぶ離れているので、国分寺市まで、というと困らせてしまう。運転手はすこし慌てる素振りをするか、頭を傾けてかつての記憶を辿る。

だから彼らは車を走らせても、そばにある高速を通りすぎてしまう。道順を頭のなかで整理しているうちに、見落としてしまう。そして、次の高速になると西池袋から乗ることになります、という。わたしはいつも、そのはずです、と初めて利用するかのように答える。

そしてNHKラジオに周波数を合わしてもらう。

椎名町、と書かれた駅が見える。駅名を横目に入る高速の入り口は、勾配が急で、スピードによっては重力をなくす。身体の芯がふわりと、空中に留まる。そしてオレンジの光のなかへ潜り込んでいく。

 

アンカーという仕事を知ったのは、井田真木子さんがキッカケだ。

井田さんはノンフィクション作家で、女子プロレスや温泉芸者にまつわる作品を出版している。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなど、将来を期待されていたひとだ。

わたしが井田さんを知ったのは自分が上京した直後のことで、その「同性愛者たち」という一見不穏当なタイトルの本はとても面白かった。ときは94年、まだLGBTという言葉もないころ。井田さんは作中、アカーを筆頭に同性愛者のことを知ろうとアメリカに出向く。カストロ通りやレインボープライドにも顔を出す。

井田さんは、ときに取材対象に寄り添いすぎてしまう。それは演出と呼ぶには感情的で、自らの色が出てしまう。ではそれがドキュメンタリーではないのかというと、そんなことはない。自身と対象の日々を記録し、紛れもなく「ドキュメント」している。

井田さんは対象に激しいほどに感情移入するが、でもどこかフワフワしていて、それは時代性が浮き彫りになっているようで、つまりリアルだった。「府中青年の家事件」はとても大きな出来事だったが、その陰にこんなに坂を何度も上り下りするようなひとがそばにいたのだ。

井田さんのことを調べていくうちに、もともと灘に住んでいたということ、そして詩を書いていたということを知った。親近感を覚えたわたしは、井田さんの職歴に「アンカー」という文字を見つけた。

編集部に初めて訪れた際、「ゆくゆくはアンカーって仕事もしてもらおうと思うねん」と上司が言っていたことを思い出した。

 

タクシーは深く地層をもぐっていたはずが、トンネルを抜けると空が近い。道路の壁に埋め込まれたライトは眩しい光を乱発し、左の窓には高層ビルが次々と現れる。それらも光を持ち、道を照らしているが誰もいない。

右の窓の建物は低く遠くまで見渡せる。すべてにひとしく夜がおりている。

暗い平原を見ていると、20歳のときのひとり旅を思い出す。タイは暑く、町から水蒸気が立ち上がっているようだった。バスでスワンナプーム空港からバンコクへいくまでの道なり、目の前の道は舗装されて都会的なのに、車窓にはまだまだ荒々しい自然や古い風景が残っていた。

 

“心がおれる”という表現はもともと神取忍によるもので、井田さんのインタビューで彼女が口をついたことから一躍広まった表現だという。

生前の井田さんはショートカットで、凛とした女性のように見える。だけどいつかの読書会で、晩年は「破滅的に」アルコールに溺れていたとも耳にした。わたしはその理由を知らない。

 

父の四十九日の1週間後に、祖母が亡くなった。

父が亡くなった後、わたしは体調を崩した。もともと予定していた台湾旅行のころには回復していたが、そのタイミングで編集部は掲げていた大きな目標に差し掛かっていた。成し遂げるために旅行の直前も直後も、その最中もせわしなかった。

はたとすると四十九日を目前に控えていたので、慌てて飛行機のチケットを取った。

気づけば家はホコリまみれで、くわえて新しい曲をまた作ろうと思っていた。睡眠をよくとり、やっと手をつけられると思ったとき「おばあちゃんが危篤です」と母からのLINEが入り、数分後には斎場の案内が届いた。

またか、と思った。

 

祖母はわたしが子どもの頃、よく運動会を観にきてくれた。文化祭の合唱では「卓ちゃんの声が一番聞こえていたよ」と褒めてくれた。その後は決まって「神戸館」でクリームソーダをご馳走してくれた。

家族で喫茶店に行くという風習がなかったので、「神戸館」に行くことも“特別行事”だった。わたしが「喫茶店のマスターになりたい」と思ったことの原体験は当時のコーヒー豆の匂い、それから祖母と楽しむクリームソーダの白濁した緑色の鮮やかさだった。

祖母に怒られた記憶がない。姉と比較して「わたしは卓ちゃんのほうが好きよ」と話すくらい、豪快な愛を見せてくれたこともあった。

この10年はアルツハイマーになってしまって、わたしも会うことを躊躇ってしまった。最後に会ったのは2年前、わたしが当時働いていた歴史あるカフェの名前を出すとファンだったらしく「そこで働いてるの!」と喜んでくれたが、次の瞬間「ところであなたはどなたですか?こんなに優しくしてくれて」と話していた。

 

父が死んだとき、飛行機のなかでパニックになり涙が一気に流れた。

しかし祖母の記憶は遠くにあり、わたしも歳をとった。「いつ死ぬかわからない」とずっと覚悟していたし、だから祖母の訃報を聞いても喪服や日用品を淡々とスーツケースに収めていった。

思春期のころ、父が死んでも絶対涙を流すことはないだろうし、死をもって父の存在を“美談”とするような空気が家族内に流れることを危惧していた。

結果的にいうと”死”だけが原因ではないし美談とまではいかないけれど、「父はそういう人だった」と受け入れることができている。

もちろん与えた思い出の質や総量、その死のタイミングも異なるので比較するのは野暮だけれど。父と祖母それぞれの死について、自分があまりにも対照的な反応をしていることに少し驚く。

 

チカチカと乱れ打つ光。加速していく車体と白黒輝く運転手。どんな顔で、どんなことを考えているのか。

 

「国立府中」という文字が見え、ぐるりと半円を描く軌道。

冬ごろの高速をおりる頃、ラジオから男と女の入り混じる声が聞こえてきた。混線しているのかと思ったら、郷ひろみと松田聖子のデュエットだった。2人が誓ったのは永遠の愛だった。

いまはクラシックの特集が流れている。管と弦のあいだで、やわらかな雨音が聞こえ始める。

そして編集部に傘を置いてきた、と思い出す。 

014

父親が死んだ。

わたしはその夜、取材の準備をしていた。直前に決まった取材もあり、家でコピーした資料を片手に一晩で2つの質問票を仕上げた。

朝の4時を迎え眠りに就こうとしたそのころ、母からの電話が鳴る。時間が時間なので、あまりいい知らせではない、と読む。

わたしには長年アルツハイマーを患っている祖母がいる。子供のように暴れる祖母は目覚めるたびに睡眠薬を投与され、ほぼ寝たきりだと耳にしている。

覚悟のようなそうでないような気持ちで、電話に出ると母が、父の心肺停止を告げる。心電計の音を背景に、もうアカンねんて、と口にする。

電話を切り、各所に連絡する。シャワーをし、思いつく限りの必需品と喪服を詰めたスーツケースを引きずる。

最寄駅の階段を降りる。途中の窓から、卵黄のように逞しい光を帯びた富士の山を見る。

 

羽田から神戸までは1時間と少し。その後ポートライナーやJRを乗り継ぐと地元に着く。実家の斜め前にある斎場へと向かう。

「根岸家 控え室」の扉を開くと、母が部屋の隅でうな垂れている。みんなは、と訊ねると、アンタが一番よ、と母は応える。「みんな」とは誰を指したのか、自分でもよくわからない。

透明なケースに入れられた遺体に手を合わせる。

 

父はこの1週間、皮膚の病で入院していた。しかし母がいうには、その前日の晩までは元気だったようだ。

20時ごろ、2人はLINEでやり取りしていて、近づくゴールデンウィークの予定を立てたり、歯医者の予約や、うっかり入院先に持ってくるのを忘れたという“鼻毛カッター”を「明日持ってきて」と頼まれたという。

しかし深夜3時ごろ、巡回していた看護士が異変に気付く。脈を測ったところ、父はもう亡くなっていたようだ。

皮膚の病は帯状疱疹というもので、それ自体は大した病ではない。父のそれは惨々たる状態だったが「激しく皮膚が荒れた」くらいで医師も受け止めていた。しかしそれは父の身体にとって、免疫力が著しく低下しているというサインだったようだ。

そして父は敗血症を発症し、亡くなった。ナースコールを押し続けたり苦悶の表情を浮かべていたわけではないので「本当に一瞬で」心臓が止まったのではないかと医師ははかっている。

そう話し終えた母は白髪が多く、猫背で瞼をたるませている。父の死に憔悴している。自分にも“それ”が近づいているという恐怖に肩を震わせているようにも見える。

お坊さんに送るお父さんの略歴を一緒に考えてほしい、という。

こういうのにはわかりやすい、パキッとしたエピソードがないとダメなんだよ、と編集部でよく言われるセリフを繰り返す。

 

姉が部屋に飛び入ってくる。甥を背負ったまま、母と抱き合う。

姉を皮切りに次々と親戚が集まってくる。母はそのたびに、LINEや鼻毛カッターのくだりを繰り返す。

ここ10年、親戚の集まりに参加していないわたしは居心地の悪さを覚える。久しぶりやな、元気にしているか、という問いを文字通りに受け止めることができない。

彼女おるん、との問いに、いるわけないじゃないですか、と大きくかぶりをふる。「いるわけない」とは “30代男性になりきれていない” と思う。

理由も意味もなく思い出したように、時折コンビニに出かけては時間を潰す。

その夜、一斉に人のひいた部屋で本葬の謝辞を母から頼まれる。

 

私の父は、蚕(かいこ)のような人だった。

95年の震災の影響で過労死寸前まで働いた父は、脳梗塞に倒れ障害をもった。そして会社を辞めた。

家は貧乏ではなかったが、母が毎日のように休むことなく働いていた。ピリピリとしたムードが漂っていた。

父には趣味もなく、友達もいなかった。

外に出て飲み歩いたりギャンブルに散財するようなこともなかったが、かといって家事をして母のサポートをするわけでもない。

その代わり家でテレビを見て、ずっと寝転がっていた。

毎朝同じ時間に起き、寝転がり、昼にはカップラーメンを食べて眠り、夕食をとり、テレビを見ながら腕を組んで眠り、入浴を済ませると床についた。

打ち込むものもなく、会いたいひともいない。読書やネットで見識を深めるでなく、バラエティを見ては笑ってただ眠るだけ。

無職という立場上、そうならざるを得ないのかもしれない。しかしこの人生は、いったい何なのか。

父と同性である自分は同じ轍を踏む可能性があるかもしれない。そう思うと、父や自らのセクシャリティをいっそう嫌悪した。

また父は、私と姉とはほとんど話さなかった。生涯の大半を母としか話さなかった。そして、ふとした拍子で母に激昂した。

障害をもっているとはいえ時間や体力にゆとりのある父が、毎日働きづめで家事もこなして疲弊していた母を責める様子は耐えがたいものがあった。

父の話には主観しかない。

部屋という繭にこもり、1人の世界で生きていた。

 

夫婦の財布は別々だった。母は生活費を稼ぎ、父はそれ以外の、例えば学費といった「家のこと」を担当していた。

父は無職にもかかわらず、すぐに大金を差し出した。とにかくローンを嫌い、クルマを買い替えるときも毎回即金だった。

不要なものを突如買ってくることもあった。まだDVDが普及したての頃、誰が望んだわけでもないのにプレイヤーを買ってきた。

わたしの趣味に合わないサンダルや、火曜と木曜に必ず買ってくるドーナツのように些細なものを挙げるとキリがない。

しかし、そのお金がどのようにして生まれているものなのかを母も知らない。

よくわからないお金を臆面もなく差し出す父。その姿は、休みなく働く母を蹂躙するようで不愉快だった。

 

20歳の頃に初めて一人旅をした時、父は札束をわたしに握らせた。

もともとはタイに行こうと自分で決めて計画をし、自分でお金を貯めていた。自分で何から何までするのが意義深いことだと考えていたためだ。

旅立つ前々夜、唐突に父が私の部屋に入ってきた。そして「これを使え」と10万円を差し出した。

わたしは断った。しかし父は、持って行け、と繰り返した。

趣旨を説明しても父が引き下がることはなかった。だからわたしは、このお金があれば、もっと母をラクにしてあげることができるだろう、といった。

お互い譲ることはなかった。結局父が激昂し、その10万円を私の手にねじ込み、部屋に戻っていった。

父は以降も、そうして私に札束を渡すことがあった。わたしが10万円と少しでひと月をやりくりしていたフリーター時代、父は何度か口座から口座へとたいそうな単位を移した。

私はその束をお金として見ることができなかった。それらに触れることはなく、すべて定期預金に回した。

 

通夜のあと、そんな話をしたところ姉もかつて出産祝いと称して札束を渡されたと明かした。

そして、そんなようわからん金なんかいらん、と言ったが、父はまた同じやり方で札束を姉の手にねじ込んだという。

すると母が、お金の出どころがわかってん、という。お父さん、おじいちゃんおばあちゃんの遺産を信託銀行に預けて、ひたすらその利子を貯めてたみたい。

母がいうには、祖父母の遺産を父は受け取ったものの、それから20年弱ひたすら銀行に預けては利子を貯めていた。それらに「家のこと」以外で一切ふれることがなかったようだ。そしてそこに「自分」を含めない。

母も大金がどのようにして生まれるのか、これまで知らなかったが、通夜にあたり父の部屋をひっくり返したとき「お金の作り方」の痕跡を見つけたという。

つまり、お金を貯めるために、テレビを見て、ずっと寝転がっていたという解釈でいいの、とわたしは母に訊ねた。

たまりゆくお金には目もくれず、ひたすら寝転がる。自らを高めたり、楽しいことには手を出さない。また、誰かと楽しい時間を過ごすこともない。そして、果てる。

方法はよくわからんけど、そういうことらしい。まぁそれも、死んだからわかってんけど、と母は言った。

また父はよく「家族のために」と口にしていたという。

 

お父さん最近は、絵を描いたりガーデニング始めたりして、楽しそうやってんけどねえ。孫も生まれて、次はどこどこ行こう、ってそんな話ばっかりやってんけど。

 

よく一緒に仕事をするカメラマンの話を思い出す。彼女の生家はもともと養蚕をしていた。

蚕は繭ができるまえに茹でられるんだよ。成虫になると、繭を食い破ってしまうから。茹でられると、もう用がないから処分されるんだって。成虫になるために繭を作ってるのに、完成する前に茹でられて死んじゃうって、どういう気持ちなんだろうね。ひたすらみんな、そう繰り返してきた種族なんだけど。

これも“本能”ってやつなのかな。その人はそういって、笑っていた。

 

繭にくるまり糸を吐き出しながら、ひとりで寝返りを打つ。出し切りそう、やっと光に気づくとき、いなくなる。

その光は眩い(まばゆい)が重厚な熱を持ち、言葉をなくす。繭はほどかれ、糸となる。

できれば父はもっと、母を気遣い慮るべきだった。わたしたちともっと話すべきだったとも思う。

しかし父がここまでして繋ごうとした「家族」というものが何なのか、私にはわからない。

そしてその糸をわたしが、誰かと結ぶことは、きっとない。

 

本葬を迎えた。春らしい陽気のなか、アスファルトの駐車場に長渕剛が反響している。

父方の実家でお世話になっているお坊さんが岡山からやってくる。葬儀が始まり、お経を会場中で一斉に詠む。

遺族として前に立ち、焼香を見守る。初七日も合わせるので、計40回ほどしきりに頭を下げる。母方の親戚ばかりで、父方には叔父の家族しかいない。

謝辞は結局、葬儀場からもらったお手本集を参考にシンプルなものにした。いくつかの例文を組み合わせ、父の人生に気苦労は絶えなかっただろうけれど、安らかに眠る姿が慰めだ、これからは3人で力を合わせて頑張ります、というようなことを話した。

 

お顔を見るのは、これが最後です。色とりどりの花々を祭壇から取り上げ、みんなで棺に並べていく。それから父が入院前に買った、孫と食べるつもりだったというリンゴやオレンジも。わたしが物心ついた時から、お茶の間に欠かせなかった、小さなバームクーヘンたちも。

母と姉は手紙を入れた。わたしは父の亡くなった日がちょうど発売日だった、自分の名前の載った週刊誌を入れた。名刺も挟んでおいた。

年末、父にお前の仕事は非正規なのか、会社には正式に所属してないのか、と難癖をつけられた。わたしは、記者というのは基本的にフリー扱いやし、楽しんで働いてるし、健康やし貯金もできてるしで、これ以上何を求めるわけ、と返した。

葉をビールに浸す。そのしずくを動かなくなった口元につける。葉先がゆがむほど、岩肌のように固い。

「アンタはいつも準備してただけや!」と姉が涙ながらに声を荒げる。そして棺は閉じられる。

 

火葬場までの送迎バスに乗り込む。出向いて、棺を渡す。その後斎場まで戻り、ご飯を食べて、再びお骨拾いのために火葬場へと向かう。

斎場から火葬場までの距離はクルマで30分ほど。最初は地元の懐かしい風景に高鳴るものもあったけれど、何度も行き来していると次第にありがたみは薄れてくる。

インタビューをする予定だったアイドルグループは、数年前メンバーの1人を突然病で亡くした。当時ニュースが騒がしかったので、よく覚えている。

父の亡くなる前日、編集部から帰る電車のなかで彼女たちが当時を振り返るインタビューを読んでいた。リーダー格の子が、みんなが泣いてるから最初は泣けなかった、と話していた。

わたしも「長男」として、この3日足らず肩肘張ってしまうところがあった。だから彼女の話していることがよく理解できる。

とはいえわたしは、小学3年生の頃から大学を出るまで父とはほとんど話さなかったし、最後まで「お父さん」と呼ぶことはなかった。だからいつでも行動を共にし、ともにステージに立ち続けたメンバーを亡くした彼女とは気持ちのベクトルが違うけれど。

でも1人で夜に死ぬのは、どんな気持ちだったのだろう。

田んぼにスーパー、工場にラブホテル。ラーメン屋にコインランドリーに、コンビニ。何でもあるように見えて何もない、曲がりくねった郊外の道をゆっくり抜けると火葬場に到着する。

 

再び棺を開いて箸を渡される。唇をやめた亡きがらの、骨は赤紫に染まって渇いている。

 

012

年の暮れに帰省して会った友人に、こんな話をされる。それは、誰々は政治について「騒ぎ過ぎだ」というものだった。

友人は、政治については騒ぐことなく「待つしかない」という。“最低”な状態になるまで、待てばいい。するとメシアが必ずやってくると。

わたしは、最低というのは人それぞれの基準がある。それをみんなで「待つ」と、いつまで経ってもことは解決しないのでは、と返す。それにメシアは、今すでに声を上げているすべての人々だとも話す。

会話は平行線をたどり、わたしがトイレに立つことでその幕を下ろした。

 

1月3日、平沢勝栄議員が「LGBTばかりになると国が潰れる」という発言をする。

10年前、少子化には雇用や貧困の問題が絡んでいるとわたしは学んだ。また海外のLGBTを受け入れた地域において出生率が減ったわけではないとも知っている。

その発言を記事にしようと決める。芸能人が何々をした、という記事のほうが「読み手には伝わるよ」という上司の言葉が念頭にはある。

そこでロバート・キャンベルさんの言葉を引く。Twitterでキャンベルさんは平沢議員の発言記事を引用し、「もっと勉強してくださいよ」とツイートしていた。

だからわたしは、その言葉を中心に記事を作成する。

 

作成した記事の、ネットのコメント欄には1200以上の感想が上がっていた。

しかし、その多くは平沢議員の発言を肯定的に捉えているものだった。「生物学上正しい」「人口が減る可能性が高い同性愛に危機感を持つのは当然」といった声が上がっていた。

それはキャンベルさんの“意見を”というよりかは、キャンベルさんの“あり方を”否定するものだと思った。

また彼らは、一部の人たちが「差別だ権利だ」と感情的に騒ぎ過ぎている、ともいう。

 

星野源はおげんさんの姿を借りて、こういった。「おげんさんは男でも女でもないから」と前置きをし、紅白について「性別関係なく、混合チームでいけばいいと思う」と。

もともと彼は「両親が同性同士の家族はどんどん増えてくる」「そういう家族も含めた、懐の大きい曲を作りたいなと思った」と自身の楽曲「Family Song」について言及している。

ポップスターが、マイノリティを見つめているのは希望だと思う。

しかし「家父長制を支持しているくせに」「女を女体や母親としか見ていないくせに」「そうやって、すぐこちらに目配せをする」といった言葉が“仲間内”で上がっていた。

 

わたしはいま、LGBTの自称保守派が統一教会と結託していく様を静観している。

 

生きているというだけであらゆる問題に直面する。波風が立ってしまう。

生きるために意見や、その理由をせがまれる。その言動は常に意味深長である必要があり、少しでも認識が甘いと貶められる。

くまなく思考し、その都度答えを出す。毎日のように考えをアップデートすることを強いられ、そのたび苦悩する。

だけど感情を抑えないと、ルールや「正しさ」を前に建設的なやりとりができない。その前提はいっそうに苦しみを生む。

とはいえ、ことは一進一退を繰り返すのみ。むしろ野蛮な風に遠く足を放り出されることだってある。

そうする間に「わたし」たちと「そうでない人」たちの間にある結界が、強力に増幅していく。

沖縄に生きる人だって、そう。「身体を使って」と茶化されたあの子だって、きっとそう。

わたしはこれを“最低”だと思う。

 

わたしには母親に捨てられた友人がいた。

彼女は父の経済状態の都合もあり、孤児院に預けられた。もともとコミュニケーションが苦手だった彼女は中学生の頃にはもう、学校に通わなくなった。

父と住むようになったけれど、その頃には心の病を患っていたようだ。社会人となる年齢になっても、学歴はもちろん就業のスキルもない。

彼女は、それでも働きたかった。そして母の借金の肩代わりをさせられていた、父を支えようと思った。

しかし就業支援に行ってはやめ、行ってはやめを繰り返していた。どうしても働くことができなかった。

彼女は孤児院で育った 、精神科に通う低所得層というとても「政治的な存在」だった。

いつも障害者年金でライブハウスのノルマを払う自分を卑下していたし、それでも自分の歌を聴いて欲しいという狂いそうなほど率直な欲望の間で懊悩していた。

 

そんな彼女が、その人生を「うた」にすることはできても「声」を上げることができなかった理由について考える。

どうして彼女が、電車に飛び込むという選択をしたのかについて考える。

そしていっぽう彼女にとっては、最低も何もなかったように思う。

 

仕事でレコード会社の新年会に参加する。会場は南青山、俳優やモデルも抱えており、テレビや映画に欠かせない煌びやかな女性たちが笑顔で出迎えてくれる。

地上から遠く離れた場所で夜景を眺め、華やかな食事に舌鼓を打つ。尽きることない酒を飲み、所信を表明する若い声に拍手する。

 

「お母さん教えてよ、同じ女でしょう」と歌う彼女の声はここで、わたしの胸にだけ、こだましている

011

置き引きに遭う。

新宿で飲んだ夜の帰りだった。知人と別れ、特快から快速に乗り換えた。国分寺駅を出た直後、ビジネスバッグを網棚に置いたままだと気づいた。

あわてて知人に連絡すると、もう立川で降りてしまったという。最寄り駅で駅員に相談すると、忘れもの確認のために駅員を使うことはできない、その電車は折り返してくるから自分で確認してもらうしかない、という。

返ってきた電車を調べても、それらしきものは見当たらない。電車を見送り元の駅に戻る。

見つかりませんでした、と伝えると、気を落とさないでください。明日の18時以降なら確実です、とJRの忘れ物センターの連絡先を渡される。

幸い財布は背負っているリュックに入れていた。しかし買ったばかりのMac Bookやキーケース、読み始めた多和田葉子は手元にない。

駅前のマンガ喫茶で夜を過ごす。気を紛らわそうと、その知人の編集する週刊誌をめくる。

無修正とか処女とか過激な言葉を並べると、フシギと買い手が増えるんですよ。その人はそう言っていた。

 

明けてタクシーに乗り大家さんの家を訪ねる。用件を話しカギを借りる。風呂に入り仮眠をとり、急いで電車に乗って職場へと向かう。

昼ごはんを食べる前に、一つ記事を書き終えた頃に、トイレに立ったついでに。そして18時を過ぎ、仕事場を出たころにも連絡を入れたものの、忘れ物センターは、パソコンや本の入った茶色のビジネスバッグは、届いてないですねぇ、という。

 

そのキーケースは母から貰ったものだった。

正確な時期は覚えていないけれど高校生の頃には手にしていたように思う。革でできたキーケースで、経年のために深い焦げ茶色になっていた。重量感はあるが程よく手に馴染む。鍵かけは真鍮でできている。

顔を近づけると、革のいい匂いがした。

当時私の家は、父は無職で、母が必死に家計をやりくりしていた。そんななか母は、“一生もの”をくれたのだった。働いていたカバン屋で、身を切るようにお金を支払ったのかもしれない。

ビジネスバッグも母のくれたものだった。わたしはもう大学生になっていたが、就活を頑なに拒んでいた。半ば押し付けるように渡されたのが、そのポーターの手提げカバンだった。

MacBookを買ったばかりのころ、リュックに背負って通勤していた。その重さに疲れ、ちょうどいいカバンがあればと思った矢先に押入れから出てきた。

今までそれは結婚式に参加するときにしか出番はなく、引っ越す先々の押入れで眠るしかなかった。ようやっと日の目を見たばかりだった。

 

わたしと母は、いつからかすれ違っていた。

英語講師である母と2歳のころからマンツーマンで英語を勉強し、高校では「国際人間科」なる進学コースへ、そののち公立の外語大に入ったわたしだが、英語を使って仕事をする自分というのが想像できなかった。

これまで英語を勉強してきたのも母に強要されたからしてきた事で、自分で望んだ事ではない。正直にいうと英語講師の息子であるというプレッシャーから、いつも解放されたかった。

しかし、今まで英語ばかりしてきたので働くためのスキルをほかに持ち合わせていない。

くわえてわたしは“働いている自分”が想像できなかった。アルバイトはいくつかしてきたけれど、自分にどんな仕事があっているか、というのはわからなかった。

 

それでも「働きたい」という気持ちは強かった。

父は過労死寸前まで働いた挙げ句、血を吐いて職を失った。

事情はわかるとして以降、部屋にひきこもっては家事を手伝うこともなく、始終テレビを見て寝ているだけ。そして、部屋から出てきたかと思えば自転車操業の母に癇癪をおこした。

外に出ないし本も読まない。そんな父が政治や社会、人生論について語ってくるのも憂うつだった。途中で仏教を信じるようになったのも卑怯だと思った。

働かないと、こうなってしまう。だからこそ、きちんとどんな仕事で「働けていけるのか」を見定めたい。

そのためにはいったん歩みをやめて、自分を見つめ直す必要があると思った。

 

就活はしない。宛てなく就職することが不安だから、いまは仕事には就けない。そう伝えると、母は理由を訊いた。

とはいえ理由が理由だけにうまく答えられなかった。すると日に日に、ことあるごとに問い質す母に次第にわたしはどんどん黙りこむようになってしまった。

どうしてそう考えるのか教えてください。納得するまで説明してください。なんとか言葉にしても口を濁しているように響く。詰問される。

次第に、そういった母と関わることに疲れてしまった。そして一旦商社に就職したものの3ヶ月で辞めたとき、どうして普通に生きることができない、と言われ泣かれたので一人暮らしを決意した。

 

フリーターとなり家を離れ距離を置くと母の干渉はさらに増した。突然、職場に現れた事もあった。

わたしも分かってもらおうと必死だった。大学を出る学力もあるのに働き方がわからない。母に触れて欲しくないからこそ母を納得させるほどの仕事ぶりを見せるべきなのに、それができない。口だけになる自分を責めた。労働と自責の関係については「統合失調症のひろば・12号」に渡したい。

母は次第に、お前は「同年代に比べると」頭が足りない、という論調をとるようになった。みんなができることをできないお前は頭が悪くてダサい。「なのに1人で生きているような気持ちになってるの?」と言われ、いっぽうで唐突に「あなたのことが知りたい」と電話で泣かれる事もあった。

わたしの領域に踏み込んでほしくないのはセクシャリティのことも多分にある。家に帰れば恋人はできたか、いつ結婚するのか。わたしに罵詈雑言を当ててくるのに、ふと甥がかわいい、その奥にあなたの顔が見えるからです、とLINEで送られてきたこともあった。早く帰ってきてください、会いたいです、とも書かれた。

知りたい、わかりたい、理解したい。教えてほしい。そんな母を前にすると、わたしは言葉をなくしてしまう。そして感情にまかせ母は激昂し、さらに”親心”を理解するよう求めてくる。

しかしわたしが言葉を口にしても届いた試しがなかった。どうしてなぜ、もっと腹を割って話さないのか、という。

わたしが必死に言葉にするとどんどん触れて欲しくないところにも迫ってくる。英語を教わっていた頃からの習性で、やめて、と言えない。そんな自分はやはり「頭が足りない」のかと自罰してしまう。

そうして生まれた隙間に彼女は忍び込んでき、罵ることでわたしの体力を奪っていく。

 

ひとり暮らしをする際「一月に一回は帰る」というルールを課せられていたが、あるときから実家に帰る日が近づくたびに身体を壊すようになった。

そんななかある朝、母から10通のラインが入っていた。アンタのためを思って言うんやけど、といつもの枕詞を置き罵詈雑言が並べられていた。どこを切っても感情しかそこにはなかった。

返信できずにいるとその夜にも10通LINEが入った。より過激な言葉が並んでいた。

さらに母はわたしの音楽活動にも触れてきた。なぜそうするのか、わかりたいといった。だから、わかってもらえるように思いを書いた。自分の追求したいことを追求するライフワークのようなものだ。そしてお願いだから、自分にとって大切なことだから、これ以上創作に関してはもう触れないでくれ、とも書いた。

幾行にもわたってわかってもらうように書いたけれど、返ってきたのは「オッケー」と書かれたスタンプ一つだけだった。

「今月は体調が悪いので帰れません」と伝えて以降、帰省は絶えた。

 

「お前はこのままだと破滅するから、お父さんとお母さんに35歳までの人生設計を見せなさい」という連絡が父から入った。同様の内容で母からも連絡があった。その翌日、仕事を休んで役所にいった。

「アンタはいつか帰ってくるから」と言われていたが、ようやっと住民票を抜いた。親不孝だと、母が親戚の集まりで涙ながらに喧伝しているとも風のウワサで耳にしていた。

もっと遠い場所にいきたいと思ったとき、東京という言葉が頭に浮かんだ。明石の市役所は春を迎え、やわらかな光が、血まみれになった掻きあとに痒かった。

 

こうしてカバンとキーケースをなくしたことで、いよいよ母とをつなぐものがなくなった。

 

Apple Storeに出向く。前と同じモデルに、と決めているので入店しすぐに店員に声をかける。

今日は混雑してるので、お待ちいただいても大丈夫ですか。肯いたあと、ふと「まえに使っていたのが置き引きにあったんですが」と切り出す。「個人情報とか、キケンですかね」と問う。

すると店員は質問に応えず、警察には届けられましたか、と訊く。

いえ、まだです。すると、警察に届けたほうがいいですよ、念のために。

初めてのことで、よくわかんなくて。言葉を濁すものの、なんとなしのバツの悪さを覚えたわたしは、今日はやめときます、と店を出る。

3店舗ほど回ったが、どの店も、ご希望のモデルはあいにく切らしてます、との返答だった。

帰路につく。失くしたもののことで頭がいっぱいになるから拒んでいたけれど、人生勉強に、と交番に寄る。

カバンとパソコンと、キーケースと本。カバンとキーケースは母のくれたもので、というと、駐在はふかく頷く。しかし名前の分かるものがあれば、探しやすいんですが、と言葉は途切れる。

翌朝、見覚えのない番号から電話が入っている。出ると昨日の交番からで、あのあと東京全域に訊いてみたのですが、ないようですね、と言う。

肩を落とさないでください、きっといつか出てきますから。

電話を切り布団に潜り込む。ボディクリームの甘い匂いが、それでも騒がしい頭の眠りを誘おうとする。

 

仕事に向かう電車ではすることがないので足を伸ばす。それに飽きたら、窓の外を眺める。

そういえば、と。パソコンのログイン画面で「根岸卓平」と表示されることを思い出す。

職場に着き交番に電話をかけ、警察署に繋いでもらう。パソコンに、根岸卓平と表示されます、と伝える。電話を切り席に着いたところ、続けて電話が入る。警察署からだった。

名前で検索したらすぐに出ましたよ。パソコン、ウチで預かってます。

パソコンだけですか、と訊くと、そうですね、カバンやキーケースはないようですが。2週間は保管していますので、お好きな時に取りにきてください。

 

その夜、渋谷でアーサー・ラッセルのドキュメンタリー映画をみる。

アーサーは寡黙な少年だった。のどかなアイオワで育ったアーサーは子供の頃から音楽に親しんできた。そしてオーケストラに入団する際、母が弾いているから、という理由でチェロを手にする。

ある時、机の中に隠していた大麻がバレて親に殴られたアーサーは家を飛び出した。そしてサンフランシスコへとたどり着いた。

シスコでは大麻を所持していたことで捕まったアーサーだが、出所したあと仏教の道へ。そばにはアレン・ギンズバーグもいた。

アーサーはそのあとニューヨークへと移り音楽を必死に見つめ続け、「アイオワには帰らない」と両親に伝えパートナーにも恵まれた。しかしHIVに感染し死んだ。

アーサーは現代音楽からディスコサウンドも含む「ポップス」までをも、チェロを片手に横断した。一聴ではなかなかピンと来ないリスナーが多い。わたしもそうだったし何より、アーサーの両親もそうだった。寡黙でニキビ面の、アーサーの作る音楽を「踊れない音楽」と2人は表現していた。

娘婿に「ご両親を尊敬します。お2人はアーサーがゲイだって認めているから」と言われた両親は「はぁ?」と聞き返す。エイズが発覚し、やっと2人はアーサーのセクシャリティを知った。

身体的にも精神的にも距離のあったアーサーとその両親だが、ではその関係が破綻していたのかというとそうではない。むしろそれぞれが、それぞれであることを認めている。だから「触れない」を選択しているようにみえた。

両親からすると言葉数の少ないアーサーは突然家を飛び出し、よくわからない音楽に人生を捧げエイズで死んだ。アーサーの人生は巨大なクエスチョンマークだったはずだが「わかりたい」とその謎を追求しようとする姿勢は、アーサーの生前から両親にはなかったようにみえた。

それでも映画に映し出される両者の関係は「親子」だった。わからない同士、わかろうとしないからこそ「良好な親子」だった。それは愛という情熱的な響きを持たないが優しい。

わかってほしい、わかりあいたい、という願いは時に暴力になる。どちらかが疲弊する。もしくはどちらも疲弊し、報われない願いに阻まれその距離に希望を絶つ。

アーサーが寡黙だったのは、好きなものやしたいことを両親に知って欲しくなかったからかもしれない。そしてどんな理由であれ、その本心を両親は語らせようとするのではなく「アーサーはそういう子」と認めていた。

だからアーサーも両親も、どちらも「息子」に縛られていなかった。

 

明けた朝、立川の警察署へと出向く。そこにはライトグリーンに染められた皮と灰色のフェルトで作られたケースに入れられた、MacBookがあった。

これで間違いないです、というと、見つけた人はお礼はいらないって。大事なものなら、また見つかればいいね、と署員はいう。

そうですね、といって「中央線の網棚」で見つかったという「パソコン」の受け取り書にサインをする。

署内にいたのは5分もかからなかった。ベンチに座り次のバスを待つ。

スリープ状態のパソコンをひらく。ログインをすると書きかけの記事が、面倒くさそうに息を吹きかえす。

010

山にのぼる。

勤めている週刊誌は原則としてひと月4回の刊行としている。火曜日が5回ある月は2週をまとめて合併号とする。よってまとめられた週は休みとなり、土日を合わせると計9日間の休みが生まれる。

webの部署なので“合併休み”の週も仕事はある。しかし、編集部に通う必要はない。

わたしにとって合併休みは今回が3回目となる。初回は唐突に知らされたので、たじろいだまま迎えた。映画を観たりしてなんとなく時間を潰していたら、「005」の記者会見の知らせが入ったのだった。

2回目は「仕事の人脈を広げた方がいいよ」と上司に言われた直後だったので、その名目で好きなアイドルの武道館コンサートに潜入した。もともとかわいいのに、タダで見るともっとかわいく見えた。

3回目は山に登ろうと決めていた。登山靴を買ったのに、履かないまま半年が過ぎようとしていたためだ。季節柄ちょうどいい気候だろう、でもひとりで行くのはつまらない、と思い關(セキ)さんに同行をお願いした。

關さんは「ひかりのうま」で対バンしたミュージシャンで隣町に住んでいる。毎週のように山に登っていてSNSでもたびたび報告している。

關さんが案内してくれたのは浅間嶺だった。アサマミネとも、センゲンレイとも言うのらしい。近くには東京で唯一の村・檜原村がある。

今回は關さんのほかにもうひとり男性がいる。シムさんといい、やはり音楽をしているという。シムさんを年長にして、ちょうど10歳ずつの間隔で3人の年齢は離れている。

3人で山道をゆく。ちょうど前日に台風が来ていたので倒木がまだひどかった。崖道を巨木が遮ることもあったけれど、2人は両手を使うなどしてクリアするからわたしもそういうものなんだと思って越える。その先に今来た道を指す「進行禁止」と書かれた看板があり、みんなで笑う。

山頂では富士山も見えた。巨大で一歩引いて、やっと山だとわかる。白い輪郭ははかない和紙のよう。山男だった祖父が、亡くなる前に登ろうと勧めてくれた理由を知る。

その週末はアニュウさんと宮永さんと江ノ島に行った。やはりそれも、海が見たい、と2人に話を振ったためだ。

江ノ島では魚を食べたいと思っていた。都心で食べる海のものはときに生臭く、同時に今まで住んだ地域の食の豊かさに気づく。江ノ島で食べた刺身は勿論おいしかった。

3人とも“観光地嫌い”だと着いてから気づき、結局借りた自転車で海辺を走った。浜に下り江ノ島の全体を見、そのギュッと身を締めて、高く背を伸ばす姿にカップケーキみたいだなと思う。でも厳かなものだというのも信じることができる。

片道2時間、往復4時間。宮永さんの運転で連れてってもらった。宮永さんがご実家にクルマを返すというので、先にアニュウさんと2人で打ち上げの居酒屋を探す。

アニュウさんに、宮永さんには申し訳ないとわかりながらも、クルマの中で何回か寝ちゃったんですよね、というと、わたしもですよ、と言ってくれた。クスクス笑い合った。

大学で英国の文化を勉強したとき、ロンドンに住む人は週末、みんな田舎に遊びに行きます、それは都会に疲れ、自然に囲まれゆったりしたいからです、という話を聞き、サバサバと都合よく住み分けしてる感じに「ヤな感じやな」とわたしは顔をしかめた。

でも、いつもとは違う景色をロンドンの人たちも見たかったんだろうな。ただそれだけだったんだ、ときっと思う。

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