011

置き引きに遭う。

新宿で飲んだ夜の帰りだった。知人と別れ、特快から快速に乗り換えた。国分寺駅を出た直後、ビジネスバッグを網棚に置いたままだと気づいた。

あわてて知人に連絡すると、もう立川で降りてしまったという。最寄り駅で駅員に相談すると、忘れもの確認のために駅員を使うことはできない、その電車は折り返してくるから自分で確認してもらうしかない、という。

返ってきた電車を調べても、それらしきものは見当たらない。電車を見送り元の駅に戻る。

見つかりませんでした、と伝えると、気を落とさないでください。明日の18時以降なら確実です、とJRの忘れ物センターの連絡先を渡される。

幸い財布は背負っているリュックに入れていた。しかし買ったばかりのMac Bookやキーケース、読み始めた多和田葉子は手元にない。

駅前のマンガ喫茶で夜を過ごす。気を紛らわそうと、その知人の編集する週刊誌をめくる。

無修正とか処女とか過激な言葉を並べると、フシギと買い手が増えるんですよ。その人はそう言っていた。

 

明けてタクシーに乗り大家さんの家を訪ねる。用件を話しカギを借りる。風呂に入り仮眠をとり、急いで電車に乗って職場へと向かう。

昼ごはんを食べる前に、一つ記事を書き終えた頃に、トイレに立ったついでに。そして18時を過ぎ、仕事場を出たころにも連絡を入れたものの、忘れ物センターは、パソコンや本の入った茶色のビジネスバッグは、届いてないですねぇ、という。

 

そのキーケースは母から貰ったものだった。

正確な時期は覚えていないけれど高校生の頃には手にしていたように思う。革でできたキーケースで、経年のために深い焦げ茶色になっていた。重量感はあるが程よく手に馴染む。鍵かけは真鍮でできている。

顔を近づけると、革のいい匂いがした。

当時私の家は、父は無職で、母が必死に家計をやりくりしていた。そんななか母は、“一生もの”をくれたのだった。働いていたカバン屋で、身を切るようにお金を支払ったのかもしれない。

ビジネスバッグも母のくれたものだった。わたしはもう大学生になっていたが、就活を頑なに拒んでいた。半ば押し付けるように渡されたのが、そのポーターの手提げカバンだった。

MacBookを買ったばかりのころ、リュックに背負って通勤していた。その重さに疲れ、ちょうどいいカバンがあればと思った矢先に押入れから出てきた。

今までそれは結婚式に参加するときにしか出番はなく、引っ越す先々の押入れで眠るしかなかった。ようやっと日の目を見たばかりだった。

 

わたしと母は、いつからかすれ違っていた。

英語講師である母と2歳のころからマンツーマンで英語を勉強し、高校では「国際人間科」なる進学コースへ、そののち公立の外語大に入ったわたしだが、英語を使って仕事をする自分というのが想像できなかった。

これまで英語を勉強してきたのも母に強要されたからしてきた事で、自分で望んだ事ではない。正直にいうと英語講師の息子であるというプレッシャーから、いつも解放されたかった。

しかし、今まで英語ばかりしてきたので働くためのスキルをほかに持ち合わせていない。

くわえてわたしは“働いている自分”が想像できなかった。アルバイトはいくつかしてきたけれど、自分にどんな仕事があっているか、というのはわからなかった。

 

それでも「働きたい」という気持ちは強かった。

父は過労死寸前まで働いた挙げ句、血を吐いて職を失った。

事情はわかるとして以降、部屋にひきこもっては家事を手伝うこともなく、始終テレビを見て寝ているだけ。そして、部屋から出てきたかと思えば自転車操業の母に癇癪をおこした。

外に出ないし本も読まない。そんな父が政治や社会、人生論について語ってくるのも憂うつだった。途中で仏教を信じるようになったのも卑怯だと思った。

働かないと、こうなってしまう。だからこそ、きちんとどんな仕事で「働けていけるのか」を見定めたい。

そのためにはいったん歩みをやめて、自分を見つめ直す必要があると思った。

 

就活はしない。宛てなく就職することが不安だから、いまは仕事には就けない。そう伝えると、母は理由を訊いた。

とはいえ理由が理由だけにうまく答えられなかった。すると日に日に、ことあるごとに問い質す母に次第にわたしはどんどん黙りこむようになってしまった。

どうしてそう考えるのか教えてください。納得するまで説明してください。なんとか言葉にしても口を濁しているように響く。詰問される。

次第に、そういった母と関わることに疲れてしまった。そして一旦商社に就職したものの3ヶ月で辞めたとき、どうして普通に生きることができない、と言われ泣かれたので一人暮らしを決意した。

 

フリーターとなり家を離れ距離を置くと母の干渉はさらに増した。突然、職場に現れた事もあった。

わたしも分かってもらおうと必死だった。大学を出る学力もあるのに働き方がわからない。母に触れて欲しくないからこそ母を納得させるほどの仕事ぶりを見せるべきなのに、それができない。口だけになる自分を責めた。労働と自責の関係については「統合失調症のひろば・12号」に渡したい。

母は次第に、お前は「同年代に比べると」頭が足りない、という論調をとるようになった。みんなができることをできないお前は頭が悪くてダサい。「なのに1人で生きているような気持ちになってるの?」と言われ、いっぽうで唐突に「あなたのことが知りたい」と電話で泣かれる事もあった。

わたしの領域に踏み込んでほしくないのはセクシャリティのことも多分にある。家に帰れば恋人はできたか、いつ結婚するのか。わたしに罵詈雑言を当ててくるのに、ふと甥がかわいい、その奥にあなたの顔が見えるからです、とLINEで送られてきたこともあった。早く帰ってきてください、会いたいです、とも書かれた。

知りたい、わかりたい、理解したい。教えてほしい。そんな母を前にすると、わたしは言葉をなくしてしまう。そして感情にまかせ母は激昂し、さらに”親心”を理解するよう求めてくる。

しかしわたしが言葉を口にしても届いた試しがなかった。どうしてなぜ、もっと腹を割って話さないのか、という。

わたしが必死に言葉にするとどんどん触れて欲しくないところにも迫ってくる。英語を教わっていた頃からの習性で、やめて、と言えない。そんな自分はやはり「頭が足りない」のかと自罰してしまう。

そうして生まれた隙間に彼女は忍び込んでき、罵ることでわたしの体力を奪っていく。

 

ひとり暮らしをする際「一月に一回は帰る」というルールを課せられていたが、あるときから実家に帰る日が近づくたびに身体を壊すようになった。

そんななかある朝、母から10通のラインが入っていた。アンタのためを思って言うんやけど、といつもの枕詞を置き罵詈雑言が並べられていた。どこを切っても感情しかそこにはなかった。

返信できずにいるとその夜にも10通LINEが入った。より過激な言葉が並んでいた。

さらに母はわたしの音楽活動にも触れてきた。なぜそうするのか、わかりたいといった。だから、わかってもらえるように思いを書いた。自分の追求したいことを追求するライフワークのようなものだ。そしてお願いだから、自分にとって大切なことだから、これ以上創作に関してはもう触れないでくれ、とも書いた。

幾行にもわたってわかってもらうように書いたけれど、返ってきたのは「オッケー」と書かれたスタンプ一つだけだった。

「今月は体調が悪いので帰れません」と伝えて以降、帰省は絶えた。

 

「お前はこのままだと破滅するから、お父さんとお母さんに35歳までの人生設計を見せなさい」という連絡が父から入った。同様の内容で母からも連絡があった。その翌日、仕事を休んで役所にいった。

「アンタはいつか帰ってくるから」と言われていたが、ようやっと住民票を抜いた。親不孝だと、母が親戚の集まりで涙ながらに喧伝しているとも風のウワサで耳にしていた。

もっと遠い場所にいきたいと思ったとき、東京という言葉が頭に浮かんだ。明石の市役所は春を迎え、やわらかな光が、血まみれになった掻きあとに痒かった。

 

こうしてカバンとキーケースをなくしたことで、いよいよ母とをつなぐものがなくなった。

 

Apple Storeに出向く。前と同じモデルに、と決めているので入店しすぐに店員に声をかける。

今日は混雑してるので、お待ちいただいても大丈夫ですか。肯いたあと、ふと「まえに使っていたのが置き引きにあったんですが」と切り出す。「個人情報とか、キケンですかね」と問う。

すると店員は質問に応えず、警察には届けられましたか、と訊く。

いえ、まだです。すると、警察に届けたほうがいいですよ、念のために。

初めてのことで、よくわかんなくて。言葉を濁すものの、なんとなしのバツの悪さを覚えたわたしは、今日はやめときます、と店を出る。

3店舗ほど回ったが、どの店も、ご希望のモデルはあいにく切らしてます、との返答だった。

帰路につく。失くしたもののことで頭がいっぱいになるから拒んでいたけれど、人生勉強に、と交番に寄る。

カバンとパソコンと、キーケースと本。カバンとキーケースは母のくれたもので、というと、駐在はふかく頷く。しかし名前の分かるものがあれば、探しやすいんですが、と言葉は途切れる。

翌朝、見覚えのない番号から電話が入っている。出ると昨日の交番からで、あのあと東京全域に訊いてみたのですが、ないようですね、と言う。

肩を落とさないでください、きっといつか出てきますから。

電話を切り布団に潜り込む。ボディクリームの甘い匂いが、それでも騒がしい頭の眠りを誘おうとする。

 

仕事に向かう電車ではすることがないので足を伸ばす。それに飽きたら、窓の外を眺める。

そういえば、と。パソコンのログイン画面で「根岸卓平」と表示されることを思い出す。

職場に着き交番に電話をかけ、警察署に繋いでもらう。パソコンに、根岸卓平と表示されます、と伝える。電話を切り席に着いたところ、続けて電話が入る。警察署からだった。

名前で検索したらすぐに出ましたよ。パソコン、ウチで預かってます。

パソコンだけですか、と訊くと、そうですね、カバンやキーケースはないようですが。2週間は保管していますので、お好きな時に取りにきてください。

 

その夜、渋谷でアーサー・ラッセルのドキュメンタリー映画をみる。

アーサーは寡黙な少年だった。のどかなアイオワで育ったアーサーは子供の頃から音楽に親しんできた。そしてオーケストラに入団する際、母が弾いているから、という理由でチェロを手にする。

ある時、机の中に隠していた大麻がバレて親に殴られたアーサーは家を飛び出した。そしてサンフランシスコへとたどり着いた。

シスコでは大麻を所持していたことで捕まったアーサーだが、出所したあと仏教の道へ。そばにはアレン・ギンズバーグもいた。

アーサーはそのあとニューヨークへと移り音楽を必死に見つめ続け、「アイオワには帰らない」と両親に伝えパートナーにも恵まれた。しかしHIVに感染し死んだ。

アーサーは現代音楽からディスコサウンドも含む「ポップス」までをも、チェロを片手に横断した。一聴ではなかなかピンと来ないリスナーが多い。わたしもそうだったし何より、アーサーの両親もそうだった。寡黙でニキビ面の、アーサーの作る音楽を「踊れない音楽」と2人は表現していた。

娘婿に「ご両親を尊敬します。お2人はアーサーがゲイだって認めているから」と言われた両親は「はぁ?」と聞き返す。エイズが発覚し、やっと2人はアーサーのセクシャリティを知った。

身体的にも精神的にも距離のあったアーサーとその両親だが、ではその関係が破綻していたのかというとそうではない。むしろそれぞれが、それぞれであることを認めている。だから「触れない」を選択しているようにみえた。

両親からすると言葉数の少ないアーサーは突然家を飛び出し、よくわからない音楽に人生を捧げエイズで死んだ。アーサーの人生は巨大なクエスチョンマークだったはずだが「わかりたい」とその謎を追求しようとする姿勢は、アーサーの生前から両親にはなかったようにみえた。

それでも映画に映し出される両者の関係は「親子」だった。わからない同士、わかろうとしないからこそ「良好な親子」だった。それは愛という情熱的な響きを持たないが優しい。

わかってほしい、わかりあいたい、という願いは時に暴力になる。どちらかが疲弊する。もしくはどちらも疲弊し、報われない願いに阻まれその距離に希望を絶つ。

アーサーが寡黙だったのは、好きなものやしたいことを両親に知って欲しくなかったからかもしれない。そしてどんな理由であれ、その本心を両親は語らせようとするのではなく「アーサーはそういう子」と認めていた。

だからアーサーも両親も、どちらも「息子」に縛られていなかった。

 

明けた朝、立川の警察署へと出向く。そこにはライトグリーンに染められた皮と灰色のフェルトで作られたケースに入れられた、MacBookがあった。

これで間違いないです、というと、見つけた人はお礼はいらないって。大事なものなら、また見つかればいいね、と署員はいう。

そうですね、といって「中央線の網棚」で見つかったという「パソコン」の受け取り書にサインをする。

署内にいたのは5分もかからなかった。ベンチに座り次のバスを待つ。

スリープ状態のパソコンをひらく。ログインをすると書きかけの記事が、面倒くさそうに息を吹きかえす。

コメントを残す